忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

寛容のパラドックス~寛容な社会は不寛容に寛容であるべきか

 どうにも昨今の世の中が不寛容になっている気がするので、タイトルについて若者と話した時のことを思い出しつつ。

 

寛容のパラドックス 

 このテーマ自体は1945年にイギリスの哲学者カール・ポパーによって「寛容のパラドックス」として発表されたものです。

 ポパーは

「寛容な社会を維持するためには、社会は不寛容に不寛容であらねばならない」

という結論に達しました。

 アメリカの哲学者ジョン・ロールズも同様の結論に至っており、

「公正な社会は不寛容に寛容であらねばならないが、社会は寛容という原則よりも自己保存を優先する権利を持っており、自身の安全と自由の制度が危機に瀕していると切実かつ合理的な理由から信じる場合に限り、不寛容な人々の自由は制限されるべきだ」

と述べています。

 

寛容と不寛容の定義 

 まず前提条件として、寛容と不寛容の違いについての定義をする必要があります。

 寛容(Tolerance)の歴史を紐解くとその明確な定義は困難ですが、一般化して

異なる意見・宗教・民族等に対して一定の理解を示し、許容する態度

としてみましょう。転じて不寛容(Intolerance)はその反対で、許容しない態度であるとします。

 ここで、許容する態度とはすなわち受容であり、攻撃性を含まないものとします。すなわち、多様性・環境問題・種の保存といった寛容に属する看板を掲げていようが、それを他者に対して攻撃的に強要する行為は寛容とは程遠いものであり、不寛容に属するものだとします。

 ”寛容でなければいけない”という強制は寛容ではない、ということです。

 

不寛容に対する寛容の対応

 上記の定義に則った場合、寛容は攻撃を行えず不寛容は攻撃をするものですので、寛容は一方的に不寛容からの攻撃に曝されることになります。

 寛容は受容する態度ではありますが、攻撃に対してはその態度が発揮されることはありません。一方的な攻撃に対しての受容はただの自死であり、生存本能という生理的欲求が当然ながら勝ります。もちろん自死を選ぶような社会もあり得ますが、その寛容さは不寛容によって殺されることになり、現世や後世に残ることはありません。

 同時に、不寛容との対話・議論による教導も期待できる効果は得られません。定義により、不寛容とは異なるものへの理解や許容を示さない態度であるからです。対話や議論によって態度が変わるのであればそれは不寛容ではありません。 

 外部からの攻撃、すなわち差し迫った危機的状況において生物や集団が示す反応は、戦うか逃げるか反応(Fight-Flight response)と呼ばれます。

 反応の内訳は3つあり、戦う(Fight)逃げる(Flight)身動きを止める(Freeze)です。

 3つのうち、寛容は戦う(Fight)を選択することができません。攻撃をした時点でそれは寛容では無くなるからです。

 では身動きを止める(Freeze)、つまり防御的な反応はどうでしょう、擬死のような形で現れるこの行動は攻撃者からの防御や逃走を目的としています。丸くなって防御姿勢を取ったり、動体視力に優れた捕食者から見つからないようにしたり、逃走のタイミングを図るために行われます。これは不寛容に対して寛容が取れる一つの方法と言えます。不寛容からの攻撃に曝されたとしても反撃はせず、逆に集団の団結を高めることに利用するわけです。

 課題となるのは、不寛容の度合いが寛容な社会の許容量を超える場合です。盾を持っていてもミサイルには耐えることができないように、防御が有効なのは攻撃者の威力よりも防衛力が高い場合だけです。寛容に取り得る手段は可能な限り集団の団結力を高めていき、外部からの攻勢に一切揺るがない組織化をするしかありません。外部からの影響を受けなくなった強固な組織、一般的にはそれをカルト組織といいます。つまり防御を固めていくと社会は自然と寛容を失っていくというわけです。防御は寛容を維持するためにあまり適切な行動ではないことが分かります。

 よって、寛容な社会が取れる唯一の反応は逃走(Flight)しかないのではないでしょうか。不寛容からの攻撃に曝された際は議論するでもなく、攻撃もせず、ただ耐えるのではなく、その攻撃が届かないところへ移動する。もしくは最初から攻撃に曝されない位置に居る。それ以外に寛容な社会を守る方法は無いように思われます。

 例えば新しい外国人の友人ができたとしましょう。友人を家に招いた際、彼が土足で部屋に入ってきたとします。それが許容できるならば寛容の態度を示しましょう。許容できない場合は靴を脱ぐように要求します、相手が寛容であれば理解を示してくれるので互いの寛容は維持されることになります。

 課題となるのは相手が不寛容であった場合です。

「私の国では家の中では靴を履くものだから靴は脱がない!」

とこちらを攻めてきた場合、どのように対応すべきでしょうか。

「こっちの国では靴を脱ぐものだから脱げ!」

と攻撃する反応は当然寛容では無いので取り得ません。仕方がないと我慢する、これはこちらの許容度次第ですが、許容できるのであればそもそも靴を脱ぐように要求すべきではありません。逃走に該当するのはその友人とは今後関わらないことでしょう。それが寛容かどうかは難しいところですが、無制限の許容は現実的では無いので許容範囲内での寛容は維持されます。

 

寛容が維持される条件

 以上より寛容が維持されるのは、

  • 不寛容が寛容の許容範囲内である場合
  • 互いに寛容である場合
  • 寛容が逃走する場合

の3つに絞られます。そうなるとやはり、どうしても許容を超える不寛容に対して寛容を維持する方法は逃走以外に無いのではないでしょうか。

 昨今ではソーシャルネットワークが発展したことから様々なところにおいて不寛容との衝突が発生しています。ソーシャルネットワークによって発生したものもあれば、過去からあったものが可視化されたものもあります。オープンコミュニティでは逃げ場が無いことから、炎上した人はアカウントを削除するかオンラインサロンのようなクローズドコミュニティへと移動することになります。これも反応としては逃走(Flight)の一種であり、やはり現実的な対応なのだと分かります。攻撃(Fight)はさらなる炎上を生むだけですし、そのような状況で冷静な議論は成り立ちません。

 

不寛容を寛容に変えることはできるか

 さて、互いに寛容であれば寛容が維持されることは前述した通りですが、不寛容を変革して寛容へと教導することは可能なのでしょうか。

 これは不寛容を「理解を示さず、許容しない態度」と定義する場合、寛容の教導を許容しないことが不寛容であることから、変革は理論上不可能です。対話が通じる程度の寛容さを互いに持っていれば教導にも希望を見出すことはできるでしょうが、そうでないのからこそ不寛容なのだから。

 

 不寛容な人や集団に対しては、諭して教導するのではなく関わらないようにするほうが良さそうだという結論になってしまいました。少し残念な気持ちです。

 

追記(2021.08.18)

 寛容に関して続きの記事を作成しました。