キャンセルカルチャー(Cancel culture)がここ数年で急速に欧米諸国で広がっています。欧米で流行ったものは遅れて日本にもきますので、そろそろ日本でもキャンセルカルチャーの風が吹き荒れるだろうと想定してます。というかすでにかなり始まっている気がしますので、それに関する所見を残しておきます。
最初に、私はキャンセルカルチャーを好んでいません。
みんなちがって、みんないい、のほうが好みです。
キャンセルカルチャーとは
大雑把に言うとキャンセルカルチャーとは特定の対象の発言や行動を糾弾して、不買運動や出演拒否、解雇や暴力によって社会から排除しようとする動きのことです。元々は他者のミスや過ちを徹底的に糾弾するコールアウトカルチャー(call-out culture)からの派生で、近接する概念としてはポリティカル・コレクトネスやソーシャルジャスティスウォーリアーがあります。
最も著名な例はハリーポッターの作者J.K.ローリングの発言に対するものだと思います。彼女がLGBTコミュニティに対して反対的な意見を表明した時、リベラル派はローリングに対して一斉に攻撃を行いました。不買運動を実施し、SNSでも攻撃をしました。「LGBTに反対することは不寛容と村八分を助長する」と意義を唱えるその口で、不寛容にもローリングを村八分にしようとしました。
他にもブラックライブズマター運動ではアメリカの偉人の像を打ち倒し、アメリカの歴史書を変えようとしています。現代の価値観において奴隷制は違法であり、偉人が「当時」奴隷を所持していたからです。彼らにとって悪いものである奴隷制の歴史そのものをキャンセルしています。
ブラックライブズマター運動に否定的な人間を解雇したり暴力を振るうのも彼らにとっては許容されています。例えそれが運動家の暴動や暴力に反対するものであっても。
政治家や著名人、公式アカウントや個人の失言や不適切な発言に対してSNSで攻撃して炎上するのもキャンセルカルチャーです。広い意味で言えばマスメディアによるメディアスクラムもこれに含まれるでしょう。
社会正義という誤謬
キャンセルカルチャーを推進する人は社会正義を唱えます。社会に害を与える悪いものだから排除しなければならないと謳い、彼らが悪と認定した対象を徹底的に排除しようとします。
彼らには3点の誤謬があります。
第一に、何を持って悪と認定するのか。
正義と悪は相対的であり、時代や情勢、地域や文化によって大きく異なります。彼らが相手を悪と認定する根拠は実のところ極めて恣意的で、個人的で、自己中心的な思い込みによるものです。
第二に、彼らは正義の立場にいるのか。
彼らにとって正義とは悪の反対の概念であり、彼らが自己中心的に対象を悪と認定した時、自動的に自身は正義の立場になると考えているようです。ですが実際のところ、対象が本当に悪だったとしても彼らが自動的に正義になるわけではありません。悪と対立する悪は存在し得るからです。
第三に、正義は悪を攻撃してもよいのか。
俯瞰して見ると分かりますが、他者を攻撃することは一般的に悪と言える行為です。正義の名を冠していたとしても悪行が看過されるわけではありません。
結局のところカルチャーと銘打たれてはいますが、やっていることは正義ではありません。イジメです。
キャンセルカルチャーと歴史の事例
歴史の事例から考えるとキャンセルカルチャーについては警鐘を鳴らさざるを得ません。悪しき物事を悪いからといって消し去っては結局繰り返すことになるからです。悪い歴史こそ明確に記憶して、記録して、教訓としなければいけません。賢者は歴史より学びますが、愚者は経験からしか学ばないものです。
最も被害の大きいキャンセルカルチャーの事例は中国の文化大革命でしょう。
紅衛兵を名乗った若者達が主体となったこの運動では、人民を毒する旧思想・旧文化・旧風俗・旧習慣を徹底的に除かねばならない(破四旧)として中国全土で活動を行いました。
その結果多くの宗教施設や書物、伝統が破壊されて、中国が数千年で培ってきた歴史はほぼ全て途絶えてしまいました。共産党の幹部や知識人、地主や資本家などは組織的に吊るし上げられ、反革命分子のプラカードを首から下げさせられたうえ大勢の前で拷問を受けることになり、多数の死者が出ました。
果てには「親や共産党の言うことを聞くのは旧弊だ」「人を殺してはいけないのは旧弊だ」「赤信号で止まらなければいけないのは旧弊だ」「毛沢東に従うのは旧弊だ」とありとあらゆる物事に反対するようになり、社会基盤に致命的な打撃を与えることになりました。
最終的には「破四旧に従うのは旧弊だ」と自己否定の域に至り、紅衛兵の派閥が乱立した挙句に内部抗争を繰り返して運動は消滅していきました。
日本で有名な事例としては連合赤軍の総括が挙げられるでしょう。
紅衛兵の派閥乱立と同様の事例ですが、日本の左翼政治活動家も当時無数の派閥に乱立して闘争が行われていました。連合赤軍は2つの派閥をまとめたものでしたが、派閥間の意見が合わず軋轢が発生した後、リーダーの意見に従わないものには「総括」という名の暴力、拷問、リンチ、殺人までもが許容されるようになってしまいました。
古い歴史で見れば魔女狩りや異端審問もキャンセルカルチャーと言えます。コミュニティから異端と認定されたものには暴力的な方法すら許容されるようになってしまう、まさにイジメの構図です。
現代でも何ら変わらず同様の構図が発生し続けています。SNSの発展によって情報発信がしやすくなったこともあり、失言した人や一般と異なる価値基準で発言した人を一斉に叩くことが頻繁に起きています。悪と認定することで自らを社会的正義の立場に置いているつもりなのでしょうが、やっていることはイジメです。
キャンセルカルチャーによるカルト集団の形成
キャンセルカルチャーを推進するとどうなるか。それは破滅に至る以外無いことを歴史が証明しています。
キャンセルカルチャーの基本は「悪を認定し」「それをコミュニティから排除」することです。つまりコミュニティを広げるのではなく、コミュニティを削っていく方向性です。悪が除外されたコミュニティは純粋なものになるかもしれませんが、総体で見ればコミュニティは小さく先鋭化した状態となります。つまり、簡単に言えばカルト化します。というかカルト集団が誕生する経緯こそがまさにこのキャンセルカルチャーによるものです。
先鋭化したカルト集団では、コミュニティ全体が正義であり悪は除外しきったと錯覚するようになります。それは同時に、彼らにとってはコミュニティ外が悪に変わることを意味します。前述したようにキャンセルカルチャーでは悪の反対が正義であると考えており、自らのコミュニティが正義であるならばそのコミュニティに賛同しない外部は悪であるというような論理構造を持っているからです。
先鋭化して縮小したカルトコミュニティの外には膨大な一般人が作る通常の社会があり、カルト集団はその通常の社会を悪と認定して敵対するようになります。
つまりカルト集団は必ず反社会的な特性を持つようになります。だからこそカルト集団は世界中で危険視されているのです。
以上より、キャンセルカルチャーは必ず反社会的集団を産み出すことをその論理構造に内包しています。ヤクザや暴力団、麻薬の勧誘と同じレベルのものであり、決して安易に賛同すべき思想ではありません。
なぜキャンセルカルチャーが流行るのか
どうにも分からないのは、なぜ人をそんなに簡単にキャンセルしてしまうのかというところです。
恐らく思うにシンプルな話で、相手に対する敬意や尊敬が無いからでしょうか。キャンセルは排除であり、否定や説教、教導などと比べてとても重い行為です。相手を個として尊重する気持ちがあればコミュニティへの同化を目指すものであり、キャンセルしようとは思いません。コミュニティから除外するというのはもはや相手を人とは認めていないのと同レベルの行為です。
敬意や尊敬が無い人間を自己中心的な人間といいます。つまりキャンセルカルチャーは言ってしまえば自己中の文化ということです。
別に人生はひとそれぞれ、考え方もそれぞれで良いと思います。ただし自己中心的な人間はコミュニティから受け入れられないことは覚えておいたほうがいいでしょう。理由は簡単で、自己中な人間はコミュニティを受け入れないからです。コミュニティの価値観・責務・目的・構成員の自由や権利を理解せず受け入れようとしないものを何故コミュニティが受け入れる必要があるのでしょう?反社会的な集団が社会に嫌われるのはまさにここが理由です。ローマではローマ人のするようにせよ(When in Rome do as the Romans do.)、郷に入っては郷に従わなければいけません。自己中心的な人間は自身を受け入れないコミュニティを攻撃するのではなく、コミュニティに受け入れられる努力をするか新しくコミュニティを作る以外無いです。「私の考えに従え」という自由が欲しいのならば、同様に「私の考えに従え」という他者の言葉には従うべきです。
個人主義というのは自己中心的なことではありません。それは利己主義であり、誤解してはいけません。