過去記事の続きです。
伝統を変化させることと、伝統を攻撃することの違い
少し政治的な話になりますが、世の中には現状に不満を持っている人と持っていない人がいます。多くの場合は既得権益者とそれに反対する人との対立構造となります。既得権益というと大層なものに思えますが、例えばただの正社員も解雇規制に守られていることから非正規社員からすれば既得権益者ということになるでしょう。
人間の反射行動は「攻撃」「防御」「逃走」に分類されます(fight-flight反応)。現状に不満を持つ人の行動も同様で、既得権益を生んでいる既存社会秩序の破壊を望むか、耐えるか、別の社会集団へ鞍替えするかとなります。
社会に不満を持っている人が既存の社会集団の秩序を攻撃して破壊するにはどうするか。そこで出てくるのが伝統です。
伝統の定義とは社会集団で受け継がれてきた風習等です。社会とは同じ幻想を共有する集団であり、その幻想が失われれば集団を保持する必要がなくなります。つまり社会集団の団結を破壊して秩序を崩壊させるためには伝統と呼ばれるもの、つまり文化や教育、宗教、哲学、倫理といったものを攻撃することが効果的です。これは俯瞰してみると分かりやすいですが、急進派の人が攻撃する対象の多くは伝統と呼ばれるものであることに気付くと思います。
伝統を変えることと伝統を攻撃することは別であることを注意しなければいけません。伝統を変えることは当然ながら常に議論の俎上に置かれるべきものであり、ただ盲目的に伝統を墨守する必要はありませんので時代に合わせた変革をしていきましょう。しかし変革を議論する保守派と進歩派の目的は社会集団の公益を前提としなければいけません。要は皆の社会をもっと良くするために意見を交わす必要があるのです。
伝統への攻撃は社会集団の破壊に繋がるものであることから戒めるべきものです。社会集団の敵対者による攻撃以外にも、現状への危機感から良かれと思って急進的な意見、つまり伝統への攻撃意見を言う人もいます。それは善心からではありますが、必ずしも善行になり得るものではないことを注意しなければいけません。良かれと思って社会集団への敵対者に利益をもたらしているかもしれないのですから。
もちろん急進派の見解にも理解はできます。現状はマズい、このままでは良くない、すぐに改善しなければ、という危機感や使命感があるのは分かります。しかしながら私としては攻撃によって変革をするのではなく民主的に話し合いによって調整することのほうが好みです。極右や極左のような暴力的な発想は民主主義の崩壊に繋がると思っていますので、正直否定的です。最近で言うとANTIFAあたりでしょうか。世界中で活動しているアンチファシズムを標榜する極左集団ですが、「ファシズムを抑制するためには政治的な敵対者を強制的に排除しても良い」という思想集団です。反対意見を許さないなんていうのは敵対組織を武装集団で制圧していたファシストと何が違うのだろうと疑問に思うところです。
これについてはリスクの捉え方なので人に依る所でもあります。私は伝統のような社会集団の存続に関わる大きな物事はローリスクローリターンで着実に進めるべきだと考えますが、世の中にはハイリスクハイリターンを好むギャンブラーもいますので。個人の範疇であれば別に好きにして構わないのですが、社会集団における意思決定でハイリスクを取ろうとするのは勘弁してもらいたいものです。それはつまり同じ社会に生きる人様の財産や生命を勝手にBetしているということなのですから。
言い方は悪いですが、社会集団の意思決定においてハイリスクハイリターンを狙う人というのは、「皆のためにお金を増やしてきてやるぜ!」と言って人々の財布を持ってギャンブルに行くようなものなのです。どれだけ善行のつもりだろうと怒る人が出て当然でしょう?
伝統の価値:比較機能
一つ伝統の具体的な価値について説明しましょう、それは比較機能です。
伝統とは受け継がれてきたものですので、つまりは過去や歴史の記憶と記録です。伝統を残しておかないと現在の情報しか残らなくなり比較対象を失ってしまいます。つまり今が良いのか悪いのか判断が付かなくなってしまうのです。極論、悪い伝統であっても比較対象として残す価値があります。必ずしも現実に反映する必要はありませんが、捨ててしまわないほうがいいわけです。
歴史上、伝統を失ったことによる弊害がもっとも顕著に現れたのが共産主義でしょう。資本主義は成長の限界があり差別構造を生む諸悪の根源だとされ、資本を全て国有化して皆に平等に分配することで真に差別の無い世界を作ることができるという思想が共産主義です。理路整然とした論理を持っており当時の被差別集団やインテリに好まれたこの思想は第一次世界大戦後に爆発的に普及していきました。急進派によって多くの国々が伝統や歴史を捨て去った共産主義国家となり、人類はついに平等な楽園を手に入れたと思われましたが、その結果1億人以上の人が国家の権力者によって殺される悲惨な結末を迎えました。第二次世界大戦の死者が5000万人~8000万人なのでそれ以上です。
原因は単純に、新しいから良いものだと思っていた、理路整然とした論理が誤っていたからです。経済学者ミーゼスの言を借りて、「誘因問題」と「経済計算問題」が論理から欠けていたために凄まじい貧困が発生しました。
誘因問題とは大雑把に言えばやりがいの問題です。どれだけ人より働いても生活向上の機会が無く分配されるものが皆同じ環境ですと、奴隷労働の弊害と同様に作業者が可能な限りサボろうとしてしまいます。労働生産性が著しく低下してしまうわけです。
経済計算問題とは生産手段を国有化して独占した場合、市場が存在しなくなって価格設定が行えなくなる問題です。資本主義であればある製品を生産して販売した際に黒字であれば事業継続、赤字であれば撤退という判断ができますが、市場が無い場合はその経営判断を行うことができなくなります。
さらに、平等な分配を達成するためには適切な生産量を計画しなければいけませんが、国家規模の組織において何をどれだけ作れば適切かを決定することは人間には不可能です。農業一つ取ってもその年の気候を全て予測して必要な種の量を推定できる人間などいません。
加えて致命的な問題として、共産主義の社会集団は全てを計画的に行わなければいけないため、全員が納得して集団に奉仕することが必須になります。必然国家権力は極めて集権的かつ強制的なものにならざるを得ず、結局は階級構造や差別構造が生まれることになりました。
ちなみに現代の先進国の多くは修正資本主義を取り入れています。伝統的な資本主義に手を加えて少しでもその弊害を取り除こうとしたもので、例えば社会福祉の充実や税制の累進性などです。慎重派や進歩派が主流な現代では歴史を熟知してこのように手直しをすることで進んでいますが、人々が歴史や伝統を捨て去った時、再び人類は悲惨な選択を取ることになってしまうでしょう。