忘れん坊の外部記憶域

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なぜ野党は批判ばかりと批判されるのか

 与党の批判・監視は国会における野党の仕事の1つです。よって野党が与党を批判すること自体は問題無いことであり、それが野党の仕事です。

 「野党は批判ばかり」というテンプレのような言説に対しては上記の理由を持っていくつもの反論記事が出ています。いくつかリンクを貼らせていただきます。

野党の役割は「代案」を出すことではない | 荻上チキ・日本の大問題 | ダイヤモンド・オンライン

お約束のフレーズ『野党は反対ばかり』の裏にある「本当の意味」(FRIDAY) - Yahoo!ニュース

不満はあるけれど野党も嫌い 「批判嫌い」の行きつく先は? - 特集 - 情報労連リポート

 これらの反論記事にあるのは1つの誤解です。

批判することを批判しているのではない

 「野党は批判ばかり」という声に対して、野党は批判するのが仕事だと反論しても意味がありません。何故ならば「野党は批判ばかり」という批判ではなく、「野党は批判ばかり」が批判の主題だからです。野党が与党を批判すること自体に文句を言っているのではなく、「野党が批判ばかりだと思っています」という意味のクレームなのです。

 ですので批判も仕事なんですよという反論は効果を成しません。反論するのであれば批判ばかりではないんですよという実例やデータを提示する必要があります。

野党に求められているもの

 なぜ野党は批判ばかりという声があるのでしょうか。これは実に分かりやすい話で、国民が野党に与党の代わりとなることを期待しているからです。つまり「私たち野党は与党を批判する仕事をちゃんとしています」という程度のレベルではなく、「私たち野党は与党よりも適切に政権運営ができます」ということを示してほしいという期待の表れです。野党が仕事をしていないことを批判されているのではなく、やっている仕事が求めるレベルに届いていないからこその批判です。

 批判も仕事ですという言い分を企業人で例えれば、頼まれた仕事はちゃんとこなしてますよ、言われたことはやってますよというレベルです。新人やアルバイト、出世する気の無い方であれば許容されるでしょう。しかし国民が今の野党に求めているのは自ら企画や提案に動いたり積極的に新しい仕事に挑戦する優秀な幹部候補生としての姿です。まあ要求が高いといえば高いのですが、そのくらいの気概を持って仕事をしてほしいという要望があるからこその批判の声ということです。

 少し厳しい表現になりますが、批判をするのは野党以外でもできます。いや、もちろん国会の場において批判できるのは野党だけですが、国民の声を全て無視するような政権運営は次の選挙で落とされてしまいますので民主主義国家ではできません。よって市民の声やマスメディア、海外機関や企業、組合や団体といった各所からの批判も有効です。しかし与党の批判勢力としては最大である野党には、そういった他の集団の批判よりも進んだことを求められているからこそ「野党は批判ばかり」という批判が出るのです。

受け皿としての野党

 地位やお金は人のモラルを容易に低下させ得るものであり、歴史が証明するように程度の差こそあれ権力は必ず腐敗します。よって民主主義国家としては自浄作用を働かせて腐敗の膿を出さなければなりません。党内での派閥の再編や政権交代など権力構造が入れ替わるのであれば方法は問われませんが、派閥再編では限界があることからある程度の政権交代があったほうが確実な自浄作用となるでしょう。

 つまり野党に求められているのは不満の受け皿ではなく政権運営の受け皿の機能です。良いことかどうかは別として、不平不満は今の時代SNSやブログでいくらでも吐き出すことができますし実際に吐き出されています。現在は与党の閣僚級にさえ直接的にSNSで文句を言うことができてしまう世の中です。そのため今の時代の野党には不満の受け皿という立場はすでに求められておらず、少数派の意見を通す政策立案能力と必要に応じて権力交代をする政権運営能力が求められています。野党にはなかなか厳しい時代と言えるでしょう。

余談

  特に支持政党は無く選挙都度でのマニフェストや政治家個々人を見て投票している無党派層の私としては、有力な政党が複数乱立することが権力腐敗を避けて政治の選択肢を増やす最適な状態だと考えていますが、今の与野党どちらを見ても・・・まあ、なんともコメントしにくいところです。もの凄いリーダーシップを持った政治家が現れれば現構造を破壊することもできるでしょうが、それはそれで独裁まっしぐらなので民主主義の危機となってしまうでしょう。やはり民主主義国家としては教育に力を入れて徐々に改善していくしかないと考えます。