忘れん坊の外部記憶域

主に時事やビジネス、政治経済や興味を持ったことについて書き散らしています。

恥ずかしがり屋は損をする

 恥ずかしがり屋で自己主張が弱い人であることは残念ながら基本的に得にはなりません。理由はとても単純で、誰もが超能力者やサトリではないからです。

喜びとは意が通ること

 人が喜びを覚えるのは自らの希望や望みが叶った時です。つまり意のままとなること、自らの意に沿うことが起きると嬉しさを覚えます。反対に意にそぐわない状況や望まない事態に対しては苛立ちを覚えることでしょう。

 このは何もしなければ表に現れません。察しの良い人が居れば態度やちょっとした言動から意を掬い取ってくれることもありますが、そんな素敵なモテ人間は数少なく、またそれらの人が手を伸ばせるのも身近な範囲までです。多数が関わる大きな意をどうにかできる人はそれこそ数えるほどでしょう。

 人が認知できるのは他人の言動のみであり、他人の意を把握し切ることはできません。誰も超能力者やサトリではないのです。そのために自己主張が弱い人が得られる喜びは残念ながら自らの手の届く範囲で取り扱えるものや察しの良い人から与えられるもののみとなってしまいます。

意を伝えることは悪いことではない

 自儘に振舞えばいいという意味ではありませんが、意を人に伝えることは決して悪いことではありません。相手の望みを叶えるという行為は概ね善行であり、そして人には善行を成すことを喜びとする感情の回路があることから、意を伝えてそれを叶えてもらうことは互いに喜びを得ることになります。それが社会的生物としての自己防衛的な脳の仕組みであろうとも、互いに喜びを得られることは何も悪いことではないでしょう。

 よって自己主張をして自らの意を相手に伝えることは相手の善行を促進するという意味でも価値があります。意を伝えるのはむしろ生み出される喜びの総量を増やす行為とも言えるのです。もちろん相手のキャパシティを超えるような意は喜びを減らすことになりますので我儘放題に意を伝えればいいというわけでもありませんし、逆に相手の意を叶えてあげることも必要です。

 ようはお互い様であることが最も喜びの総量が高まる最適な状態と言えます。恥ずかしがり屋は少し損であり、モッタイナイのです。

余談の自分語り

 こんな話をしているにも関わらず、私自身も相当に受け身で結構な恥ずかしがり屋です。自覚してはいるのですがなかなか改善できていません。ブログにしても読者登録やスターを自ら催促するのはつい気が引けてしまいます。いただけると嬉しいのですが自分から言い出すのはどうにも気恥ずかしいのです。同様に人様の記事にコメントをするのも大変に高いハードルだと感じています。誰かが作ったものに後から私のようなものがコメントをしたら蛇足となってその記事の完成度を落としてしまうのではないかと危惧しているのです。自分がコメントをいただけると嬉しいのにおかしな話です。

 最近はようやく恥ずかしさを乗り越えて少しずつブックマークでコメントを残したりできるようになってきましたが、基本的にははてなスターを置き逃げするような状態です。なんやこいついつもスターだけ置いてくやんけ、と思われるのも少し恥ずかしい、恥の無限ループに陥っています。円環ではなく螺旋のように徐々に前進できていることを信じ、要らぬ羞恥心を捨てて少しずつ恥を無視できるように慣れていこうと思っている次第です。

 私の購読リストはすでに3桁のブログで詰まっており物理的にコメントし切れる量では無いことも現実ではありますが、スターの置き逃げではなく貴方の記事を読んでますよ、こんな感想です、とコメントできるようになりたいものです。

 記事が良いと思ったら読者登録をお願いします。(小声)