忘れん坊の外部記憶域

主に時事やビジネス、政治経済や興味を持ったことについて書き散らしています。

意思決定者に求められるのは結果責任

 人の行動には責任が伴います。車で事故を起こせばその責任が、発言が人を傷つければその責任が発生するものです。

 責任の所在を難しくしているのは意思の有無です。刑法39条で「心神喪失者の行為は、罰しない。」とされているのはその代表例でしょう。刑法では過失犯と故意犯を明確に分けているように、意図して意思を持って行動をしたかが着目されます。人の意思の有無はそれだけ責任の所在において重要な位置を占めるということです。

意思決定者に求められるのは結果責任

 組織や集団において意思決定者と実行者は分かれることが一般的です。

 企業であれば経営陣が意思決定者、下部組織が実行者となります。例として下部組織の営業部門が売上目標に到達できなかった場合の責任を考えましょう。時々誤解がありますが、この場合下部組織に課される責任は「行動に対する責任」までです。売り上げ目標に到達しなかったという「結果に対する責任」は意思決定者に課されるものです。下部組織は意思決定者の求める行動そのものを行わなかった場合や必要な努力を怠った場合に行動への責任を問われますが、結果責任は問われません。結果に対する責任を下部組織に持たせてしまっては経営陣は無責任になってしまいます。そんな無責任な意思決定者が世の中に居ないかと言えば・・・まあ散見されないこともないのですが・・・

 つまるところ、刑法と同様に"どこに意思があるか"が責任の所在を決めます。

 これは政治の世界でも同様です。政治家の仕事は利害調整、つまり資源をどのように再分配するかを決定することが仕事です。よって政治家に求められるのはその再分配の意思決定に対する結果責任です。実際にどのような行動を行っていたか、どれだけ熱意があったか、努力を怠っていたかなどは問われるものではありません。辛辣な表現になりますが、頑張ります、努力しますという類の言葉は政治家には本来不要なのです。結果を出せば良し、出せなければ責任を追及されるというだけのことです。時折誤解したジャーナリストが政治家の熱意や行動などを評価することがあるため注意が必要です。

意思決定は難しいからこそ高報酬

 意思決定者の責任に対して少し厳しい表現で説明しましたが、意思決定とはそれだけ難しいものなのです。

 福澤翁の著書「学問のすすめ」の初編を引用します。

また世の中にむずかしき仕事もあり、やすき仕事もあり。そのむずかしき仕事をする者を身分重き人と名づけ、やすき仕事をする者を身分軽き人という。すべて心を用い、心配する仕事はむずかしくして、手足を用うる力役はやすし。ゆえに医者、学者、政府の役人、または大なる商売をする町人、あまたの奉公人を召し使う大百姓などは、身分重くして貴き者と言うべし。

 福澤諭吉は心を用い心配する仕事、すなわち意思決定を求められる仕事は難しい仕事だと分類しています。時代が時代ですので貴賤を分ける職業差別のような意識があるのは仕方がありませんが、意思決定について述べていることは正鵠を射ています。体を動かすことよりも意思決定のほうが難しいのです。現場からすればお偉いさんは座って口を出すだけだと考えがちですが、彼らは現場の行動がもたらす結果全てに責任を負っているからこそお偉いさんの椅子に座って高い報酬をもらっているのです。

 意思決定者は結果責任から逃げてはいけません。責任を回避するのであれば端からその椅子に座るべきではないのです。その椅子は富貴をもたらすかもしれませんが、富が常に幸福をもたらすわけではないことと同様、責任による破滅と隣り合わせであることを肝に銘じなければいけません。

余談

 政治家の責任問題が常にややこしくなるのは「結果」をどう捉えるかが人によるからです。現在のコロナ禍が事例として分かりやすく、どの程度の被害であれば結果を出したと言えるのかは恐らく人それぞれ異なるはずです。諸外国と比べて相対的に見る人もいれば超過死亡の増減で見る人もいます。死者は一人でも許さないという方もいるでしょう。よって政治家というのは毀誉褒貶、各所から期待され叩かれる大変な立場に立たされるわけです。政治家というのは大変だなぁ、と思います。子どものような感想ですが。