忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

歳を取ってからのほうが勉強は楽しい

 若い頃に勉強が好きだった人は少数派だと思います。居ないことは無いでしょうが、「学校の勉強楽しいぜー!宿題大好き!授業最高!」というのはなかなかにレアケースでしょう。

 反面、歳を取ってから勉強が楽しくなる人はそこそこの人数がいるように見受けられます。また、勉強の楽しさや重要性を説いているのは概ね歳を取った大人です。これはいかなる理由でしょうか。少し考察してみましょう。

やりたい勉強をできる

 生徒や学生にとって勉強とは親や教師から「与えられるもの」であり、悪い言い方をしてしまえば強制されるものです。主体的な意思を伴った行動ではないことから、多少の苦痛を覚えるのは致し方ないことと言えます。もちろんのこと親や教師は若者の将来を考えて教育を施すわけではありますが、親の心子知らずとも言うように受け取る側が全てを理解して納得することは望むべくもありません。

 歳を取ってからの勉強は若者時代とは異なり、好きな勉強をやりたいように行うことができます。興味のある資格の勉強をしてもいいですし、資格を取るのでもなければテストだってありません、自由自在です。やりたいことをやりたいようにやれるわけですから、楽しくないわけがありません。これはつまり職場から強制される仕事の勉強は楽しくないということでもありますが・・・まあ、納得する人も多いかと思います。

未知による退屈の緩和

 歳を取ると体感時間が短くなります。これはジャネーの法則を用いて考えるのが妥当です。簡単に言えば10歳の子どもにとって1年は人生の1/10ですが、100歳の大人にとっては人生の1/100と短いものであり、年齢と心理的な体感時間は反比例の関係にあるという法則です。

 とはいえ歳を取ってからでも長い一日と短い一日というものはあります。この差異を生むのは経験です。今までと変わりないまったく同じように見知った日であれば脳が新規に物事を記憶しないため、あっという間に過ぎ去って記憶に残らない退屈な一日となります。対して新しいことやストレスを感じるような出来事があった場合は脳が新規に記憶をするため、記憶に残る長い一日となります。

 つまり体感的な時間はその日の体験が既知であるか未知であるかに大きく依存します。若者は知らないことが多く日々が未知で溢れているため体感時間が長く、歳を取って大人になると既知の出来事が増えることから体感時間が短くなるということです。

 勉強の話に戻ります。勉強とはまさしく未知を学ぶ所作を指します。今までに知らなかったこと、経験したことが無いことを学ぶことは充実した色濃い一日の記憶として脳裏に刻まれます。大人になってからは既知の記憶に残らない日よりも勉強して未知を知った日を記憶に残すべき良い一日として脳が取り扱うため、歳を取ってからのほうが勉強は楽しいと感じるのです。

楽しい時間はあっという間

 さて、では勉強そのものが面白いかというとまた少し違うかもしれません。「うおー、この英単語見たことないぜ!超テンション上がる!」という風に勉強している人は、まあなかなか居ないんじゃないかな、と思います。居るかもしれませんが・・・

 勉強そのものは体験型でない限り地道なものです。それ自体はさほど娯楽性が高いものではないことから、相当に没頭していなければ楽しいと感じることは少ないでしょう。楽しい時間はあっという間と言いますが勉強はまあ、それほどではない場合が多いかもしれません。

 勉強で楽しいのはやはり学んだことが身に付き、その実感を得た時です。ただ知らないことを詰め込むだけでは雑学マニアです。それはそれで魅力的ではありますね。とはいえ、学んだことを記憶し適切にアウトプットできた時こそが学びの実感を得られる最大の瞬間となります。

 そう考えると、ブログやYoutubeなどの媒体を用いて自らの知識や経験による学びを披露している人は勉強の楽しさを最も実感的に得られている人と言えるかもしれません。勉強をして、人に披露して、褒められたりリアクションをもらう。そうするとさらに勉強をしたくなりますし、見ている人もやっている人も楽しめるwin-winのサイクルが完成します。知見を広めることは世のため人のためにもなることから、これは歳を取って勉強が楽しくなった多くの人が参加すべき仕組みと言えるのではないでしょうか・・・?そう、若者に限らず、大人だってどんどん勉強してその成果を公開するべきなんです!うーん、極論だぁ。