忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

合理性は何を信じるかによって変化する

格言

最後の木が切り倒され、最後の魚が食べられ、最後の川が毒されたとき、あなたはお金を食べることができないことに気付くだろう。

When the Last Tree Is Cut Down, the Last Fish Eaten, and the Last Stream Poisoned, You Will Realize That You Cannot Eat Money.

ネイティブアメリカン、オーセージ族の格言

何をもって合理的というか

 以前に職場の若者と再生可能エネルギーについて語り合った際、化石燃料の今後の処遇について議論になりました。私は直ちに現文明を放棄することはできないと考えるので化石燃料の使用と並行して経済的効率性が高くなるよう新規エネルギー事業に投融資を行うべきだと述べ、彼は気候変動を抑えるために先進国の文明レベルを落として化石燃料の使用を直ちに止めるべきだと述べました。どちらが正しいというわけでもなく、どちらの意見にも理があります。

 私は個人としては人の善性を強く信じていますが、集団に善性を求めるほどの信仰心はありません。よって持続可能な社会の構築には”そちらのほうが経済的で合理的”である状態にする必要があると考えています。石炭よりも自然エネルギーのほうが安くなれば誰だってそちらを使うようになりますので、別に人の心に訴えかける必要は無いと考える次第です。現状のエネルギー回収方法では化石燃料や原子力発電を越えるのは難しいですがそれこそ人類が挑戦すべき科学的課題だと考える、まあ言うなれば資本主義・科学信者の理系脳というところでしょう。心理ではなく経済に頼ることを考えています。

 若者である彼の言い分も分かります。気候変動を喫緊の課題と信ずる場合において対策は可能な限り早くなければいけません。そうであれば技術開発など待っている暇は無く、人の行動様式ひいては心理を即座に改変し、文明レベルを落としてでも適応する必要があります。彼はマルクス主義者でもあるので経済による資本主義的合理性ではジェヴォンズのパラドックスに陥って逆に消費の拡大になることから、経済に頼るのではなく皆でそうすべきだと決めて一斉に変革を起こすべきだと考えています。

 このような意見の違いは大変に貴重です。私にとっては経済性が合理的だと捉え、彼にとっては心理改革が合理的だと捉える。一人で物事を考えていては辿り着けない新たな視点というものが双方手に入るというのはとても良いことです。さらには比較をすることでそれぞれが何を信じているかだけでなく何を信じていないかも浮き彫りになります。私は心理的な集団の善性を信じておらず、彼は経済的な集団の善性を信じていない、やはり真逆で面白いものです。

格言について

 そんな若者から、経済的合理性の追求は持続性が無いと述べられた際に挙げられたのが冒頭の格言です。実に含蓄のある良い言葉です。お金は食べられないのだから、経済的合理性にのみ従って効率に走るのではなく未来のために善なる行動をすべきだという意見には考えるところがあります。まさしく言葉の通りお金は食べられないですからね。経済至上主義・市場万能論は実に危ういことを思考から外してはいけないと私も反省しました。

 私からはフロンを例に挙げました。今でこそフロンは地球温暖化の原因である悪魔の物質のように語られていますが、元々は世のため人のために作られた夢の化学物質でした。初期のコールドチェーン技術ではアンモニアやジメチルエーテルのような物質を使わざるを得ず、モノを冷やすというのはとても危険だったのです。それを解決するために安全で化学的に安定な物質として開発されたのがフロンです。フロンは決して悪意から生まれたわけではなく、むしろ人の善意の産物です。しかし善意が必ずしも善行になるとは限らないように、より良くしようという心理が必ずしもより良い結果をもたらすわけではないことを忘れてはいけません。

結論

 彼と話した私の結論としては、人の意識変革も必要だし経済的合理性も必要、双方からやればいい話だな、というところに落ち着きました。どちらが正しいというのではなく、どちらもそれなりに正しいからこそリスクヘッジとして両方やればいい、という感じです。

 このようなことは世の中に無数にあります。互いの意見を叩き潰し合うのではなく、まずは相手が何を持って合理的と考えるのか、それに対して自らは何を信じて何を疑っているのかということを考えてみましょう。そうすることでモノの見方が変わり、無用な論争を避けることができるかもしれません。