忘れん坊の外部記憶域

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問題解決思考の落とし穴~仕組みを憎んで人を憎まず

 仕事に限らず日々は問題とその解決の連続です。そのため社会人の基礎力の一つである問題解決能力が高いことは日々の問題を解消するのに優位に働きます。

 問題は様々な形で現れますが、問題解決のフレームワークは基本的にシンプルです。問題を定義し、原因を見つけ、対策を立案し、実行して評価するという順序で行われます。

 これ自体には特に異論は無いのですが、気を付けなければいけない落とし穴があります。それは【人の心】を原因としてしまうことです。

心を責めても問題は解決しない

 寝坊して会社に遅刻するという問題が発生したとします。まあ文句無しに自分が原因と言えるでしょう。その際には何故寝坊したのか、どうすれば寝坊しないようにできるか、ということを考えて対策を打つのが問題解決のプロセスとなります。

 これが行動の範囲であれば特に問題はありません。ゲームをしていて夜更かししただとか、目覚ましをかけ忘れただとか、つい二度寝してしまっただとか、そういった理由であれば行動改善を図ればいいだけです。

 しかし原因追及の手が自身の精神面に伸びた際は注意が必要です。なぜ寝坊したのかということに対して(ダメな奴だからだ)、(やる気が無いからだ)、(意識が低いからだ)、という精神面の方向に進んでしまった場合は一旦立ち止まらなければいけません。

 問題解決思考において原因を見つけるためにはなぜ?を繰り返していくのが常道ではありますが、物事というのはその気になればどんな理由でも付けられるため、個人への攻撃へと容易に進展することができてしまいます。オッカムの剃刀を忘れてはいけません。個人の精神は人それぞれであり状況によっても変わるもので、問題があったとしても明確な対処法があるわけではないのですから、そこを責めるような原因追及は無意味どころか害悪です。

 簡単な事例として、ある人の集中力が切れてしまいちょっとした作業ミスをしたとします。集中力を切らしたお前が悪いんだ、ミスに対する意識が足りないんだ、と攻め立てたとして問題は解決するでしょうか?そのミスは二度と起こらなくなるでしょうか?

 人は常に集中できるわけではありませんので当然ながらミスが再発するリスクは依然として残ります。どれだけ意識していたとしてもプライベートでのトラブルで頭がいっぱいになっていたり体調が悪かったりと、集中できなくなる理由は無数にあるからです。それは人のやむを得ない特性のため作業者を変えたとしても同様です。それよりも人のミスが起きにくい仕組みやミスを検出できるシステムを考えた方がよっぽど有益で意味があります。

心に問題解決思考を適用してはいけない

 なぜ?を用いた原因追及自体が悪いわけではありませんが、個人の精神を対象とした原因追及が習慣化してしまっている場合は鬱病や統合失調症といった心の病の原因になることすらあります。人がストレスを感じている時はいつもであれば気にもならない周囲の人々のちょっとした言動が気になるものです。その際になぜ?を用いて理由を付けてしまうことは避けなければいけません。

あちらにいる人たちがこっちを見てこそこそ話して笑っている、なぜ?彼らは自分を見て笑っているんだ、人をあざ笑うような奴らなんだ。

誰かに見られている気がする、なぜ?実際に見られているのかもしれない、なぜ?自分を陥れようとしている人が監視カメラを取り付けているに違いない。

 本来理由の無い漠然とした緊張や心配に対してこのように理由を当て込んでしまうことでその考えに捕らわれてしまい、物事を被害的に考えてしまったり妄想や幻視・幻聴を誘発する危険すらあります。もちろんこれが必ずしも心の病に至るわけではありませんが、避けた方が望ましい考え方です。

結論

 個人の精神を責めても問題を解決することはできません。それどころか不安に起因した心の病に至る可能性すらあります。問題解決思考において人を責めることはしてはいけないのです。正しく問題と原因を見定め、具体的に解決できることだけを実行しましょう。