ビジネスの世界では生産性の向上が声高に語られますが、その多くはやり方やツールといった方法論です。しかしながらその前段階として、どれだけ新しい手法を導入したとしても使う側がしっかりと使えるように態勢を整えておかなければ意味がありません。何も下準備をせずにただただ新しい方法を取り入れたとしてもすぐ元のやり方に戻ってしまうことでしょう。新しい手法を導入することは難しいですが、それを継続的に使うこともまた難しいのです。
保守的な抵抗勢力の障害を回避して新しい手法の導入と継続運用を果たすためには物理的な制約だけでなく精神面での準備が必要です。これは根性論的な意味では無く交渉事の基本的な話です。ビジネスで顧客に商品を売り込む際はそもそも買いたいと思わせる必要があります。それと同じで、生産性を向上させるために新しい仕組みを導入するのであれば使う側が新しい方法の導入に積極的となるよう気持ちのセットアップをしなければいけません。
努力の根源
ではどのようにすれば生産性を向上させることへ乗り気にできるか。もちろんやりがいや生きがい、社会貢献といったものが有効な場合もあります。しかし最も確実な方法は生活向上の機会を与えることです。努力すれば生活向上が見込めるとなれば多くの人が自然と努力してより結果を出そうとするようになります。逆に言えば生活向上の機会を得られないのであれば人は出来る限りサボろうとします。
顕著な事例は歴史的な奴隷労働でしょう。生活向上の機会を与えられなかった奴隷達は可能な限り労働をボイコットしたため、当時の奴隷労働による生産性は著しく低いものでした。どれだけ努力して田畑を耕し農作物を作ったとしてもその恩恵は雇い主である主人のものであり、努力すればするだけ無駄骨なのですから当然の帰結です。体罰や相互監視の仕組みが必要だったのは生産性が低かったことが理由ですが、それも結局は管理コストの増加を招くものでありあまり有効とは言えないものでした。
ほぼ同様の事例がソ連を代表とした社会主義国によるソフホーズ(国営農場)です。労働者は生産物を国家や国民に売却するのではなく、規制された賃金によって受け取っていました。作る量が変わらずとも賃金が変わらないのであれば当然労働者は手を抜きます。やってもやらなくても同じなのですから。その結果各所で労働者の意欲が著しく減退し、農業生産量は下降の一途を辿り、一部では餓死者が出るほどの食糧危機へと至りました。ソ連では1930年代からソ連崩壊の1991年まで一時期を除いてほぼ慢性的な食料不足でした。
歴史のページを遡るまでもなく現代社会においてもこのような事例は枚挙に暇がなく、ノルマや脅迫のようなプレッシャーを与えることで生産性を向上させようとするマネージャーや経営者は後を絶ちません。低生産性でも労働集約型の産業であれば人数でごまかすことが出来ていましたが、先進国はどこも少子高齢化が進んでおり労働人口は減少する一方です。人数でごまかせなくなる未来が訪れることは明確なのですから、個々の生産性を伸ばす以外に組織が生き延びる術はありません。そのためには奴隷労働のような働かせ方は道徳的な意味合いだけでなく合理性の面からも廃止されなければいけないでしょう。そのような方向ではなく、生活向上の機会が得られるような報酬系へと変革をすべきです。
少し話は逸れますが、日本型の終身雇用を捨て去ることは生活向上の機会に対してネガティブな影響を与えることを留意すべきです。終身雇用では長く働くことで生活が良くなるという期待があったからこそ生産性を向上させることに意欲を持てましたが、終身雇用を無くした組織では別の報酬系を適切に設計しなければ生産性は低下することになります。
というよりも終身雇用でない場合は生活低下の機会が存在するようになるためモチベーションに影響する、と言った方がいいかもしれません。「やらないと給料を下げるぞ」という圧力は奴隷労働の弊害を発生させることになります。
結論
つまるところ生産性を向上させたいのであれば従業員の尻を叩くのではなく報酬系に手を出して変更することが最適かつ最短のルートです。それが出来るのは組織の下っ端ではなくトップマネジメントです。「我が社の社員は生産性が低い」と嘆くのではなく、自らのマネジメントを見直して社員に生活向上の機会を適切に与えることが出来ているかどうかを考えなければいけません。