忘れん坊の外部記憶域

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理想と夢想はまったく異質のものである~ある現実主義者の愚見

 世には理想論と現実論があります。

 辞書的な意味で言えば、理想論は「理想的ではあっても現実からかけ離れ、とても実現できそうにない考え方」であり、現実論は「たてまえより、むしろ現実に即して考えてゆこうとする立場」となります。

 理想論と現実論はどちらも「あるべき姿」を持っており、そこに辿り着くためにはどうすればいいかのアプローチの違いが両論の違いを分けています。簡単に言えば、一足飛びであるべき姿へ辿り着こうとするのが理想論で、一歩一歩出来る範囲で進めていくのが現実論です。

 現実論は「現実はこうだから仕方がない」と諦観するものだという誤解をされることがありますが、それは現状追認主義であり現実論とは異なります。現実論も理想論と同様に「あるべき姿」への前向きなアプローチであり、それを実現するために現実的な具体策を考えて実行していく態度のことです。対して、具体的な手法を伴わないのが理想論と言われています。

理想と夢想は異なるものである

 ここまでが理想論と現実論の観念的な比較ですが、そもそも理想論という言葉の捉え方を変えるべきではないかということを考えています。

 著名な理想主義者の集団としてカストロやゲバラを代表とするM-26-7を挙げてみましょう。彼らは現実的でない遥か高い理想を抱えた自他共に認める理想主義者でした。しかし仲間を集め、武器を集め、政府を転覆するための作戦を立てた反乱軍の行動は具体性があり、決して一足飛びで理想を実現しようという考えでは無く極めて現実的でした。理想主義者だから具体的でない、というのは誤りだと考えます。

 そもそも理想とは、考え得る最も完全なものであり、それ以上望むべきもない最善のことを意味します。それ以上無い最善というのは実現不可能と同義では無く、現実の範囲内です。つまり理想とはこの世の理(ことわり)の範疇であることを想う(おもう)ことであり、現実と地続きのものです。

 対して現実と乖離した叶うはずもない夢のような考えを夢想と言います。

 夢幻のような夢想を語るのは理想論では無く夢想論と呼ぶべきではないでしょうか。理想主義者はもっと現実的で具体的、そして努力家です。現実に実現できる理想と実現すべくもない夢想を十把一絡げに理想論で括るのは愚ではないかと考えます。

 よって私は次のように分類しています。

【現実主義者/現実論】

 高い理想は持たないが向上を図り、日々を堅実に改善していく人

【理想主義者/理想論】

 高い理想を持ち、そのために現実を変革すべく努力をする人

【夢想主義者/夢想論】

 できもしない夢想を語り、現実に努力をしない人

 例えば年収アップを目指して資格試験の勉強をするような人を現実主義者、年収の大幅アップを目指して転職したり起業したりする人を理想主義者、年収1億になればいいなと語るだけの人を夢想主義者と分類しています。

理想主義者に敬意を

 私自身は現実主義者であり、求めるべき理想の自分に向けて日々堅実に積み重ねていこうと考えています。飛躍的な革新は望んでいません。胸の内にある小さな輝きを大切に守り少しずつ育てていきます。

 そのような現実主義者だからこそ、理想論をともすれば転んでしまうような危ういものだと感じつつも、その大きな輝きに尊敬の念を持っています。誰もがそのように生きられるわけではありません。最後まで強く輝き続けることができる人は僅かです。それでも輝こうとする意志は尊いものであり、理想に向かう姿はそれだけで眩く輝いています。

 理想主義者が現実を知らない無謀な人と言われてしまうのは理想と夢想を混同していることに原因があると考えます。高潔な理想と蒙昧な夢想が理想論の中に玉石混交としているからいけないのです。

 確かに実現するまでは理想と夢想の区別は付かないものです。しかし、だからこそ語られる理想そのものについて揶揄するようなことはすべきではありません。誰かが腐した理想だって誰かが実現するかもしれないのですから。

 私たちが見るべきは理想の是非ではなく、その人が現実を変えようと努力しているかどうかであるべきです。歩いていようと走っていようと、進んでいることこそが輝きであり、敬意を払うべきものです。

余談

 現実主義者と理想主義者に優劣があるわけではありません、保守的か革新的か、プラグマティックかドラスティックか、といった違いであり、物事の進め方が違うだけです。

 但し行動の伴わない夢想家・夢想主義者だけは忌避すべきかもしれません。ただ夢想を語るだけならばいいのですけども、酷い場合は人にだけ行動を強いてエネルギーを吸い取るような方も居ますので。