忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

雨の日に洗濯物を干すような

 洗いたてのシャツを軽く振り、ハンガーに吊るしてベランダに干しましょう。今日は一寸先も見えないくらいの豪雨、濁流と化し今にも土手を乗り越えそうな河川を横目に見て、瀑布のような沛然たる雨を前に見て、白いシャツをベランダに干しましょう。横殴りの暴雨で全身ずぶ濡れになっても上機嫌で、鼻歌なんか歌っちゃったりしながら。

人生に無駄なことなんか無い?

 あると思った。

 いや、基本的には人生に無駄なんか無く、得た経験や知識を役立てないのが問題で、無駄なのではなく無駄にしているんだ、と考えていたのです。いたのですが唐突に冒頭のシチュエーションを思い付きました。

 実際にはまったく別の状況を見ていたのですが、その時に「え、それ無駄じゃない・・・?雨の日に洗濯物を干すようなことしてるね」ということを考えてしまった結果、冒頭のシチュエーションが思い付いてしまったのです。

 冒頭のこれは・・・無駄と言えるかもしれません。雨の日に洗濯物を干しても乾かないなんてことは経験するまでもなく分かることです。この経験を役立てるも何も、そもそもしなくてもいい経験と言えます。

無駄ではないかも?

 とはいえもしかしたら雨の日に洗濯物を干しても乾かないということを知らない人だからこそ雨の日に洗濯物を干してしまったのかもしれません。愚者は経験に学び賢者は歴史に学ぶと言う通り、経験しないと分からない人だっているかもしれません。そしてこの経験から学んで今後は雨の日に洗濯物を干さなくなるのであれば何も無駄なことでは無かったと言えるのではないでしょうか。

 こんな人は居ないですけども。

何にとって無駄か?

 車輪の再発明しかり、過去の経験や知見を活用すべきであり無駄なことはすべきではない、というのはそもそも何に対しての無駄なのでしょう?

 それが社会にとってであれば明々白々に無駄と言えるでしょう。何せすでに存在するのですから。

 しかし個人にとっては無駄にならないこともあります。例えばピタゴラスの定理の証明方法はすでに無数に発見されていますが、それを個人が再発見したり証明方法を学ぶことは学習上意味があることです。それを自らの血肉に出来る限り、個人の経験はその個人にとって無駄にはなりません。そう、活用できる限りは。

経験には適切なロジックが必要?

 とはいえなんでもかんでも経験したことしか学べないのであればそれは愚者の誹りを免れませんし、なにより非効率的です。無駄かどうかだけではなくその経験の要否も問われるべきでしょう。人生の時間は有限ですし、損失の大きい経験はしないに越したことはありません。

 そのためには適切なロジックが必要です。どのような経験に価値があり、どのような経験を避けるべきでないかを充分に検討し選択する必要があります。例えば目を瞑って全力疾走をしていても目的地に辿り着けるかは分かりません。石に躓いて転んだり沼地に足を取られたりと様々な経験から最適な走り方や注意の仕方を学べるとは思いますが、それよりも目指すべき所をしかと見定めて、適切な走法を学んでから走ったほうが良いでしょう。

効率的に生きることは出来るか?

 しかしながら効率的に人は生きられるかと言われれば限度があるでしょう。秒刻みのスケジュール、決まりきった食事、きっちりした睡眠時間、明確な仕事の区分、そんなはっきりとした生き方は誰にでも出来るものではありません。人が社会の中で生活を送る以上どうしても無駄な部分は発生してしまいます。

 そうであればやはり経験を選択的かつ厳密に選ぶよりも、様々な経験をしてそれを無駄にしないよう大切に取り扱うことのほうが重要なのかもしれません。選べない選択肢に右往左往するよりも配られたカードで勝負することを考えたほうが建設的でしょう。

何を書きたかったのか?

 無駄なことはあるのかないのかという結論のフラフラした無駄な文章を書いてみたかったんです。目論見通り無駄な文章を生産することができました。

 さて、この記事を書いた経験は無駄でしょうか?