忘れん坊の外部記憶域

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情報化によって進むエゴイストの社会

 情報化が日々進む現代社会では様々な情報へのアクセス性が否応なしに高まっています。もちろん容易に入手できる情報は玉石混交であり、インターネットや書籍で手に入る情報が全てなんてことは当然ありませんが、それこそかつては体験でしか得られなかった情報や口伝で語られていたような秘伝の一部までもが入手できるようになりました。

 そんな時代では情報を持っていることの価値は下がり続けることになります。情報自体のコモディティ化が進み、どれだけ情報を持っているかより、どのように情報を取り扱えるかに価値基準が向かうのは当然のことでしょう。

 しかしながら、情報を持っていることの価値が下がること情報を得ることの価値をはき違えてはいけません。「知らないことは検索すればいいからいちいち学んで覚える必要は無い」という考えはあまり望ましくないという視点もあるのです。

 

教養とは

 教養とは多義的な言葉ではありますが、辞書的な意味で言えば「学問・知識をしっかり身に付けることにより養われる、心の豊かさ」を意味します。

 つまり教養とは学問や知識に基づいて育まれた品位や人格を指します。知識をひけらかす様な行いは教養があるとはみなされないように、博覧強記であれば良いというわけではありません。知識があることは教養においては前提条件であり、その知識を土台とした品格の程度、表層に現れる状況に応じた立ち振る舞いこそが教養の存在を示すのです。

 教養は英語で言えばカルチャー(culture)です。カルチャーには「文化」や「行動様式」以外に「土地の耕作」という意味があります。耕すとは田畑を掘り返して土を柔らかくすることです。まさしく教養とは知識や教育によって心を耕し、柔らかくすることを意味します。

 太宰治が言うように不勉強な人はむごいエゴイストとなってしまいます。エゴイストの振舞いは偏屈で凝り固まっており我儘放蕩なものです。対して教養のある人の振舞いは穏和で広い心を持った柔らかいものとなります。

 なぜ教養の有無でそのような差が生まれるか、それは心が耕されておらず硬いままだからです。教養こそが他者を慈しみ自然を愛する柔らかな心を生み出します。学業や学びの真なる目的は知識を身に付けることではなく、知識という道具を使って心を耕すことなのです。

 

教養の価値は増していく

 今後も社会の発展に伴い情報の流動性・入手性はさらに高まることでしょう。それこそ未来では頭の中にコンピュータを埋め込んで無数の情報に一瞬でアクセスできるSFのような世界になるかもしれません。そのような社会では知識を脳内に貯蓄しておく必要は否応なしに低下していきます。古代社会の長老のように情報を持っていること自体の価値というものはすでに現代においても大分薄れていますが、その傾向は今後も続いていくことでしょう。

 しかし、情報を持っていることの価値は下がったとしても、情報を得ること、そしてそれによって得られる教養の価値が下がるわけではありません。むしろ「情報は検索すれば良いので記憶する必要は無い」となって知識を学び取ろうとする人が減れば減るほど教養を持った人も減少していき、教養を持つ人の価値は上がることになります。

 

情報化によって進むエゴイストの社会

 情報を持っていることの価値が下がるのは時代の成り行きですが、情報を得ることの価値まで下げてしまうと社会はどうなるでしょうか。

 教養を育むには情報を得ることに価値を見出して意図的に志向しなければなりません、そうしない不勉強な人は心の硬いエゴイストになりがちです。エゴイストとは利己主義者のことで、自らの利益の為には他者の不利益を省みない人のことを言います。人は少なからず利己的なものですが、教養の力が無ければそれが過剰となり、利己主義同士がぶつかり合う事態に陥ることでしょう。

 よって情報化社会において情報を得ることの価値まで誤って下げてしまった場合、そのような教養が育まれない社会では「私の利益のためならば他者はどうなっても構わない」という度を越えたエゴイスト・個人主義者が跋扈し、殺伐とした世の中になってしまうことでしょう。先進国での個人主義の台頭はその兆候が表れているのかもしれません。

 もちろん私は全体主義を賛美するわけでもなく、利己心を捨て去るべきだとも考えません。しかしそれにとらわれ過ぎてしまうことも危惧する次第です。個人を大切にしつつ全体利益も考えるような、何事もバランスを取って穏和に進めることを良しと考えています。