忘れん坊の外部記憶域

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無敵の人のようなカテゴライズ・レッテル貼りは好みではない

 無差別殺傷事件や凶悪犯罪がニュースで報道される度にメディアやインターネット上ではその犯罪者の属性や特徴が大きく取り上げられます。遥か昔であれば小説好きや遊民、ひと昔前であればサブカル好きやオタク、昨今であれば無職や貯蓄、交友関係が多いでしょうか。無敵の人という呼称も属性に該当するでしょう。

 個人的にはそのような属性・特徴によるカテゴライズ・レッテル貼りは好みではありません。好き嫌いの問題ではありますが少し考えていることを書いてみます。

 

カテゴライズ・レッテル貼りの問題点

 なぜ属性や特徴によるカテゴライズ・レッテル貼りを好まないか、それはいくつか理由があります。

 第一に、属性と特徴に当てはまる人が必ず犯罪を起こすかと言えばそうではないからです。【犯罪を犯した人】と【犯罪を犯した人と”同属性を持っている”人】はまったくの別物であり、それを同一視するのは明白に誤謬です。犯罪を犯したその個人を責めればいいのであって、連帯責任の如く、まるで犯罪者予備軍のように属性や特徴を責め立てるような言論は誤ったロジックであり宜しくありません。

 第二に、叩きやすい対象をカテゴライズして狙い打っているだけだからです。例えば警察庁による統計では凶悪犯罪を起こす比率は無職よりも土建業に勤める人の方が多いというデータがあります。しかし昨今の報道やSNSで無職が叩かれているように「土建業に勤める人間は犯罪を起こしやすい」なんて誰かが騒ごうものなら総叩きにあうことでしょう。極論ですが、犯罪を犯した人が「家族に優しい」と評判の人だったとして、「家族に優しい人は犯罪を犯す可能性がある!」なんてならないわけです。

 つまり職が無かったり貯蓄が無かったり交友関係が狭いことは叩きやすいから叩かれているだけであり、それは社会的なただのいじめです。そういった行為は恥であり、決してお天道様に誇れるものではないと考えます。

 第三に、属性や特徴を叩くことは無意味だからです。すべきことは課題と思われることの解消であり、属性や特徴を攻撃することではありません。例えば貯蓄が少ないことが未来への希望を損ない犯罪的思考に駆り立てるのだとすれば、貯蓄が少ないことを叩くのではなく、どうすれば皆が富み貯蓄を増やせる社会を築くことが出来るかを考えて実行すべきです。それ以外は建設性の無い無駄な行動です。

 悪いと思うものを叩くことは不満や鬱憤を晴らすことが目的かもしれませんが、その理屈はそれこそ犯罪者と同じ穴の狢になりかねません。

 

無差別殺傷事犯に関する研究

 2013年に提出された少し古い資料ではありますが、無差別殺傷事犯に関する研究が法務総合研究所から報告されています。

法務省:研究部報告50

 本報告の「おわりに」にある文章に私は同意しています。むしろ今回語ったことが適切に要約されており、この文章を紹介するだけでも良かったくらいです。

 該当箇所を引用いたします。

その過程において,無差別殺傷事犯者について幾つかの特徴的な点が示唆されるに至った。しかしながら,重要な点は,これらの特徴に当てはまる者が直ちに無差別殺傷事件を引き起こす者ではないということである。無差別殺傷事犯は,その結果は重大であるが,あくまでもまれに発生するものであって,これらの特徴に当てはまる者であっても,無差別殺傷事犯に及ぶ者は非常に少ない。したがって,学業・就労,交友関係,性格,精神障害等を始め,幾つかの特徴に当てはまる者に対して,いたずらな偏見を抱くことは厳に慎むべきである。他方で,無差別殺傷事犯に限らず,重大な犯罪等を予防し,低減するという観点からは,これらの点について,その問題性を改善することは有益である。このような観点から本研究は行われたものであって,その趣旨について誤解がないことを望んでいる。 

 

結語

 私はどちらかというと加害者に厳しい視点で考える質です。情状酌量の余地や幼少期の環境といった要因は斟酌すべきではありますが、基本的には正義(Justice)に基づき加害者から取り上げて被害者へ補填するような社会が望ましいと考えています。

 しかし責めるべき範囲は加害者までであるべきです。同属性や同特徴を持っていることは加害者と同様に責めてよいという免罪符には決してならないと考えます。

 先に挙げた無差別殺傷事犯に関する研究では犯行動機も分析されています。もちろん事件によって千差万別ではありますが、傾向としては「自己の境遇への不満」「特定の者への不満」のような、社会との関わり合いにおける不満が最大の動機であるとされています。様々な人が叩き合い、攻撃し合うような社会ではその不満はより一層増していくことでしょう。それが犯罪抑止に資するとは、私には到底思えない次第です。