忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

”やってない感”をおすすめしたい

先日は”やってる感”に関して少し苦言を呈しましたが、今回はやってない感についてその魅力をアピールしていきたいと思います。

 

”やってる感”について再び述べる

 やってる感については先日の記事で述べましたが、もう一度簡単に整理します。

 そもそもやってる感というものの定義を忘れていましたが、大まかに言えば困難や課題に対して立ち向かい行動している時の高揚感、達成感、効力感です。

 ”○○感”という日本語は親近感や安心感というように本来的には感情の状態を表すために用いられる言葉ですが、その他にも動詞や名詞の後ろに付けることで感情がそのような状態になっていることを示すことができます。高揚感は前者です、高揚しているという感情を示しています。対して達成感や効力感は後者で、達成や効力が”あると感じている”ことを表現しています。

 これはやってる感の課題を端的に示しています。”あると感じている”ことと、”達成や効力に実際至っている”ことは別だからです。実際に目的を達成出来ていなかったり効力が無かった場合でも達成感や効力感を感じることは出来てしまいます。やってる感とは実態と感情に誤謬を犯す余地のある感覚であり、さらに言えば実際の成果ではなく「やっている」「努力している」という行為自体に喜びや満足を見出している状態です。結果が伴わない可能性があることから、やってる感には問題があると私は考えています。

 

努力は辛い

 実はここだけの話、内緒なのですが・・・努力って辛くて大変なんですよ。え、誰でも知ってる?それは残念。

 確かに努力をすることは尊いものです。努力をすることが何故尊いのかと言えば、それはしんどいものだからです。物事を継続するには精神的に痛苦を伴うからこそ、それに耐えて継続できることは立派であり素晴らしいものだとされています。

 しかしながら、努力をすることは尊いものですが、努力そのものは結果ではなく経過です。だからこそ努力そのものではなく努力することに価値が置かれています。本質的に見れば継続的に行動することこそが肝要であり、努力はそれに付随する感情の問題です。

 そしてやってる感とは「行動している状態に感じる感情」であることから、やってる感を得るためには努力による痛苦も付随的に受けることを受容しなければなりません。

 

”やってない感”とは?

 以上より、やってる感の課題は「実態と感情のズレ」「努力感のもたらす痛苦」の2点です。逆に言えばこれらの課題を回避すればより望ましい状態となります。そこで役に立つのが”やってない感”です。

 やってない感とは”やってる感”の反対です。すなわち自身の行動に対して高揚感や達成感、効力感といった感情を抱かず、淡々と実行する感情を意味します。努力感は無く、物事へ立ち向かうことに気力を使わず、虚心坦懐、まっさらな心で物事へ相対する態度です。困難に立ち向かい乗り越えたという達成感を求めず、ただ為すべきことを為す、やるべきことだからやる、気持ちを入れて立ち向かうのではなく自然体で向き合う、そういった姿勢や感情の状態を"やってない感"とします。

 物事は継続することこそが重要です。そこに努力や努力感は必須ではなく、むしろわざわざ努力感を持つ必要はありません。別に辛くなくてもいいのです

 

 確かにやってる感に従って行動することは経過においても達成感による個人的な満足を得ることが出来ます。やってない感では途中経過の努力感や達成感を感じることはありません。満足を得るのは結果が出た段階です。

 しかし真に重要なのは行動を継続して結果を出すことであるべきです。淡々と実行し、結果に喜ぶ。努力という経過に満足を得るのではなく、実態に改変をもたらしたという行動の結果そのものに満足する。それは全体の満足度を低下させるかもしれませんが、痛苦が少なく結果にコミットしやすいという点を考えると、やってる感よりもやってない感のほうが優れていると考えます。

 

結論

 これを堅苦しい表現で言えば「習慣化」です。何も無理をして歯を食いしばり血の滲むような思いをして物事に相対する必要はありません。そんなことを続けていては精神的に病んでしまいます。努力をすることは尊いものですが、努力が必須というわけではないのです。人の気力には限りがありますので、むしろ出来る限りの物事を”やってない感”に頼ってこなし、必要なところに気力を集中できる環境を作ったほうが良いでしょう。

 

余談

 習慣化って重要だよね、という話を言葉を変えて言いたかったというだけです。習慣化というと堅苦しい感じがするので”やってない感”というフランクで気楽な表現もアリかなと思っています。