忘れん坊の外部記憶域

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自責他責が相対したときの関係性について~喧嘩両成敗

 子どもの頃は喧嘩両成敗というものに納得がいきませんでした。

 どれだけこちらが正当だと思う主張をしても聞いてすらもらえないことは理不尽ですし、双方が損をするくらいであればせめて片方を勝者にしたほうがいいのではないか、2つのマイナスよりも1つのマイナスと1つのプラスでゼロのほうがいいのではないか、と思っていたわけです。

 社会的な目線が身に付く年頃になると、喧嘩両成敗の目的が少し理解できるようになりました。

 必ず損になることが確実であれば社会全体で争いの抑止効果を見込むことができます。また、当事者感情としては理不尽であることに変わりありませんが、当時の捜査能力や証拠能力を考えれば裁判による調停よりも争いそのものを抑え込むことにコストを支払ったほうが社会の安定に資するのでしょう。

 今にして喧嘩両成敗を考えると、これは思ったよりも賢いものだと感じます。自責と他責の概念を取り扱う際、なかなかに有用なのです。喧嘩両成敗とは「お前ら問題起こしやがって、言い分なんか聞いてられっかめんどくせえ!どっちも処罰だ処罰!」というようなお上の横暴ということではなく、あえて両成敗することに意味があるのでしょう。

 

 この記事ではトラブルが発生した場合の自責と他責を考えます。ただし責任の所在を明確とすべきである刑法に類するトラブルではなく、知人や仕事でのイザコザ程度、せいぜいが民法のものを想定します。

 マクロにおける「法の正義による公正さ」とミクロにおける「穏便に物事を収める公平さ」は別のものということです。法の正義による公正さは重要なものですが、些細なトラブルでも全て裁判所に持ち込むのは現実的ではないように、ミクロな範囲ではまた異なる倫理が必要です。今回はそのミクロにおける話です。

 

他責同士は衝突する

 人は己に非が無いと確信している場合、他人や環境に責任があると考えます。個人が己の心中でそう考えているだけであれば特に問題はありませんが、何らかのトラブルが発生した際に双方がこの他責思考に依存した場合、調停者が居ない限りは争いがエスカレートすることになります。

 なにせ己に非が無いと双方が確信しているのですから、譲り合う余地がありません。譲り合わない者同士が双方の意見をぶつけ合えばそこに妥協点を見出すことは難しくなります。その結果トラブルがミクロの範囲では収まりきらず喧嘩に至り、調停者をおいて第三者に判定させるしか無くなるわけです。

 これは逆説的に、他責思考こそが喧嘩の原因、小さなトラブルを争いにまで大きくする原因であると言えるかもしれません。

 

自責同士、自責VS他責は集団をより良くしない

 では双方が自責思考であったり片方が自責思考である場合はどうなるかといえば、少なくとも衝突することはありません。自責思考の人は自らの非を顧みて反省し、改善を試みることでしょう。これはトラブルの膨張を防ぐ方向ではありますし、自責思考の人は反省することによって自らの成長へと繋がることから悪くないように思えます。

 しかしそのような状況では常に自責側に損失が発生することになり精神的な負担が移転されてしまうこと、そして他責側に改善が働かないことが問題となります。自責思考は自らの成長と行動変容に極めて役立つ有益な考え方ではありますが、他者や周囲を変えることには繋がりません。よって他責側の改善がまったく起こらず、いつまで経ってもトラブルの種が減らないのです。

 

他責の衝突に自責を組み込むのが喧嘩両成敗

 トラブルがエスカレートするのは双方が他責の場合です。それを避けるためには他責同士のぶつけ合いではなく双方に自責を持たせる必要があります。そこで有効なのが強制的に自責を組み込む喧嘩両成敗の考え方です。

 他責思考の人の「己に非が無いことへの確信」を変えることは難しいですが、喧嘩両成敗では「非が無いことへの確信」自体には触れません。そこではなく、互いの確信をぶつけ合ってトラブルをエスカレートさせたことを問題とするのが喧嘩両成敗的な考えです。トラブルを起こすこと自体が問題であり、それについて責任があると自責的に考えるようになれば、行動変容によってトラブルを抑制する方向に改善することが期待できるのです。

 喧嘩両成敗は古臭い理不尽な考えだと思われがちですが、よくよく考えてみると案外合理的なのかもしれません。

 

 度々となりますが、これはせいぜいが喧嘩までのミクロなトラブルにおいてです。犯罪のようなマクロな事件事故においては法の公正の元、正確に事案の内容を精査して責任の所在を定めなければいけません。

 

結語

 個人の内面における自責他責に関する記事を過去に書いていますが、今回は自責と他責が相対したときについて記述しました。

 自責と他責も結局は使い方と使い処次第です。何事も極端に偏って取り扱うことはリスクがあります。状況に応じてバランスよく用いることが最適でしょう。

 

 

余談

 喧嘩両成敗については個人的に納得しているのですが、未だに納得していないのが連帯責任です。どうにも非合理的でディスインセンティブな気がするのです。これについても功罪を検討してみますか・・・