忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

大樹の苗木を嘲笑うことなかれ

「近頃の若者」論は時代を問わず人気ジャンルですので特になんとも思わないのですが、若者の痴呆化というフレーズを先日見かけてさすがに驚きました。

 価値観や思想は人それぞれであって良いと思っていますが、これはさすがに避けたほうが望ましい考え方です。「子供叱るな来た道だ、老人笑うな行く道だ」と言いますように、年長者が若輩者を馬鹿にすべきではありません。世代によって差異があるのは当たり前のことであり、その差異をむやみに煽るような行為は世代間闘争の火に油を注ぐようなものです。

 そして世代間闘争は社会集団をより良くする方法には働きません、これは絶対です。同じ社会集団における抗争で消費される資源は無駄な摩耗となります。争うのではなく、如何に認知の違いを擦り合わせて協力し合えるかどうかを考えたほうが建設的です。

 

昔の自分は記憶されない

 まず前提として、若者が痴呆化しているかといえばそんなことは決してありません。ただ観測者の変化がそのような認知をもたらしています。

 観測者の変化とはつまり年長者の成長です。年長者は人生において学び経験してきた様々な知識を身につけており、若者と比べれば絶対的な知識量の優位があります。年長者からすれば若者が馬鹿に見えるのは当然ということです。

 そして「我々が若い頃は今の若者みたいに馬鹿じゃなかった」というのは明確に誤解なのです。

 人は過去を思い出す時に第三者的な視点を持つことはできず、必ず「現在の自分」というフィルターを通してみることになります。そして様々な情景や色、匂いといった記憶は五感で得たものが蓄積されたものです。

 その記憶の中に存在しないものがあります。それは当時の己の認知です。認知や思考は脳のシナプスの結合が生み出している状態に依存するものであって、五感のように記憶できるものではありません。シナプスの結合は日々変わっていくため、その時に自身がどう考えてどう思っていたかというのは五感の情報と比べて原理的に残しにくいのです。

 よって記憶を辿る時に使われるのは今現在の己の認知になります。「あの時の自分はこう考えていたはずだ」というあの時の自分に知識豊富な今現在の自身を転写してしまうのです。

 結果、「昔の自分はよくモノを知っていてモノを考えることが出来たが、今の若者はそれが出来ていない」という誤解が生じることになります。その「昔の自分」というのは記憶には存在せず、今現在の自分に置き換えられてしまっていることに気付かなければいけません。これは傲慢や横暴といったことが原因ではなく脳の構造上仕方がないことであり、ただの、ちょっとした、やむを得ない誤解なのです。

 

必要な知識、得てきた知識が違う

 人が相手を無知だと思うのは、自分がその知識を持っていて相手が持っていない場合になります。そして年長者が得てきた知識と今の若者が持っている知識には乖離があります。結果、年長者からすれば若者が無知に見えるのは仕方がないことです。

 しかし必要とされる知識は時代によって変わるものです。今の若者に対して「なんだ、薪の割り方も知らねえのか、馬鹿だな」と言っても仕方がないのです、使う機会が無く、学ぶ機会も無く、そして学ぶ必要も無いのですから。

 今の若者は年長者が持っている知識の多くを持っていません。だからこそ無知に見えてしまうのは仕方がないことではありますが、しかし若者は今の時代に必要な異なる知識を多く持っています。それはインターネットに関する知識であったり、グローバリズムに関する知識であったり様々です。

 よって違う見方をすることが適切です。若者は無知になったのではなく、ちゃんと今の時代に必要な知識を身につけています。それが年長者の持っている知識とはズレているという、ただそれだけの話です。

 

 これは若者側も注意しなければいけない話です。年長者がコンピュータに不得手であったりアルゴリズムに理解が無いからといって侮るようなことはしてはいけません。それはただ時代によって必要とされた知識が違うだけであり年長者が愚かだからというわけでは決して無いからです。

 

知識を持つ側に理解する努力が必要

 コミュニケーションにおいて賢い人は賢くない人に合わせることを求められます。賢い人はレベルを下げることができますが、賢くない人がレベルを上げることは難しいためです。

 そして前述したように知識量の差があることから、多くの場合で若者よりも年長者のほうが賢い立場になります。

 よって、賢者たる年長者こそが若輩者を理解し合わせてあげなければいけません。豊富な知識に依る寛容さ、豊かな経験に基づく包容力を示すのが年長者の仕事です。若者の痴呆化などと馬鹿にしている場合ではないのです。

 若者に寛容であることは少し大変です。しかしそのような大変なことができるからこそ年長者は尊敬と尊重を受け取ることができるのです。

 

 

余談

 鶏が先か卵が先か、敬われることが先か寛容だから敬われるのか、それは誰にも分からないことではあります。とはいえ喧嘩をしても仕方がありませんので、手を取り合って世代間の違いを乗り越え、ギブアンドテイクの良い関係を築けることを願います。どうか、「若者は年長者を敬うべきだ!」とか「年寄りだからって敬うのはおかしい!」とか言わず、互いにギブからしてみませんか?