トルストイの「アンナ・カレーニナ」における書き出しはとても有名です。
幸福な家庭はどれも似たものだが、
不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである
この表現を流用して、成功に比べて失敗の原因はたくさん有り得ることを指す「アンナ・カレーニナの法則」というものがあるくらいです。
また、肥前国平戸藩の藩主である松浦清山の著作「常静止剣談」においても
勝ちに不思議の勝ちあり。負けに不思議の負けなし。
とあるように、不幸や失敗、敗北や間違いには様々な理由が存在し、そこには必ず何らかの説明が付けられるのに対して、幸福や成功、勝利や正しさは単一性が高く、必ずしも説明が付けられないというのは実感的に正しいと言えそうです。
今回はこれらの名言・実感に対して少しばかり穿った別の視点を提示したいと思います。
幸福に対するバイアス?
ある正義に対してそれと同等の質量を持つ正義が対極には存在する。よって正義は絶対的なものではなく、時と場合、集団と個人、貴方と私、それぞれにおいて別個の正義が存在し得る。
というのが私の信仰です。絶対的な正義がもしかしたら存在するのかもしれませんが、私としては相対を保ちそれぞれの大切にする正義を重んじたいという、まあ、ある種の趣味的な思想です。
その観点からして、幸福というものも正義と同様に人それぞれ異なるものを持っていると考えています。時と場合、貴方と私で幸福は異なっていても良い、むしろ様々な幸福があったほうが良いという考えです。
それは人それぞれの多様性や個性を尊重したいという気持ちであることに加えて、「さあこの形が幸福だ、これを目指せ」というような幸福の固定化、押し付けは全体主義的ディストピアのような嫌な感覚を覚えるためであり、何を幸福と思うかなんて個人の好き勝手にさせてくれよという話です。
人それぞれに幸福や正義の形があるとした場合、アンナ・カレーニナの法則の解釈に支障を来たします。幸福な家庭は似たような形ではなく、様々な形の幸福な家庭が存在することを許容することになるからです。
矛盾が生じるということは認知バイアスが存在することを示しているのかもしれません。つまり、幸福の形は人それぞれだが、”私”にとっての幸福や成功、勝利や正しさの形は唯一であるというバイアスです。
そう考えるとアンナ・カレーニナの法則が発生する理屈も分かるというものです。様々な事象や状態を含んだ全体集合に対してある形の幸福を部分集合とした場合、必然それ以外の補集合は膨大な種類と量を持つことになります。
つまり、不幸の形が様々にあるのではなく、幸福の形を一つと定めているからそれ以外の全ての形が不幸に見えているということなのかもしれません。
このような幸福の捉え方、”私"にとっての幸福や成功、勝利や正しさの形を唯一のものと考えてしまい不幸の数を極限まで増やしてしまうような考え方は認知バイアスの一種と言っていいかと考えます。
部分集合を拡大する
このバイアスが存在するとした場合、抜け出すのは理屈上では難しくありません。幸福の定義を置き換えればいいだけだからです。例えば部分集合を大きくすればその分だけ不幸を減らすことができます。
もちろんそれが簡単に出来れば苦労は無いのですが。そもそも全体集合はほぼ無限大です。無限大に幸福の部分集合を広げるのは現実的ではない以上、無限大の不幸が補集合として残ってしまいます。
よって幸福の形を直接的に変えようとする試みは上手くいかない可能性が高いです。
幸福の形
ここは発想を逆転した方がいいかもしれません。幸福の形を定めるのではなく、不幸の形を定義してしまえばよいのです。
こうなったら、こうあれば、こうすれば、こうできれば、そういった唯一単独の幸福の形を追い求めるのではなく、こうなったら不幸だという有限数の不幸を定めることに注力すれば、自然とその残りの補集合は幸福側、少なくとも悪くないものとして取り扱うことができます。
無限に幸福の部分集合を広げることはとても難しいですが、有限の不幸を定めることはきっとできるはずです。そうすることで、人それぞれ多様な幸福の形を持っているのと同様に、自己の中にも唯一単独ではない多様な幸福の形を持つことができるのではないでしょうか。
おわりに
とても単純にまとめてみます。
「美味しいものを食べるのが幸福」と考えるとなかなか幸福を感じにくいかもしれませんが、「不味いものを食べるのが不幸」と考えれば大体何を食べても幸福を感じるものです。まあ、何を食べても美味いという私の愚見ではありますが。大学時代その日の飯にも困ったことがある経験上、ご飯が食べられるだけでハッピーです。