誰しも分かっていることですが、心と体は相互作用を持っています。心が辛い時は体も調子が出ませんし、体に不調があれば心も弱ります。体が疲れていたり心に余裕が無ければ寛容の精神が損なわれ、他者へ攻撃的になることもあるでしょう。
他者はともかく自らが攻撃的な言動をすることはあまり好まないという個人的な趣味があるため、私は疲れている時は発言を控えるようにしています。そのような時に言葉を探してもあまり良い言葉が見つけられないから、いえ、言葉を探すこと自体を怠ってしまうからです。
言葉を探す
『言葉を探す』という言い回しは言い得て妙です。人はまったく知らない言葉を使うことは出来ず、自らの内に保管されている言葉を探し選んで提供します。
そして心身が疲れている時はその言葉の保管所に赴いて適切な言葉を捜索する手間を惜しんでしまい、その辺に転がっている言葉をつい拾って使ってしまいがちです。
しっかりと探さずに足元に転がっていたからと適当に掴んだ言葉、綺麗に磨いて心の棚に仕舞っていない言葉。その辺に放っておかれた大切に保管していない言葉。それらは人から投げつけられたり、見聞きしたために言葉の保管所に放り込まれた言葉であり、そういった地面に落ちている言葉が綺麗なはずはありません。
だからこそ言葉をちゃんと探さず適当に拾って誰かに投げることは大抵の場合良くない結果を招くことになります。多少は汚れていない言葉を偶然拾い上げる幸運があるかもしれませんが、続けていればいずれは泥にまみれた汚い言葉を誰かに投げつけることになるでしょう。
このような理由から、私は疲れて言葉を探す余裕が無い時はあまり言葉を発しないように心がけています。せめて少しでも汚れを払い軽く磨いた言葉でなければ受け取る相手も嫌がるだろうと思うからです。もちろん他者の言動をどうこうしたいという話ではなく、自分が誰かに渡す言葉はせめて綺麗なものをなるべくは渡したいという、ちょっとした個人的な趣味嗜好です。
綺麗な言葉、汚い言葉
本来的に言葉というものには綺麗も汚いも無いものです。それは形に過ぎず、使い方や場面によって意味合いは異なります。知らない人から「馬鹿」と吐き捨てられることと親しい人に「馬鹿」と窘められることは、同じ言葉であっても異なる意味を持つように。言葉の形そのものに正邪は無く、その言葉をどう磨き、どう扱い、どう人に渡すかといったことが綺麗と汚いを隔てる違いです。
だからこそ、余裕のある時には自らの言葉の保管所に赴いて言葉を整理し、片付け、汚れを落とし、磨いて保管しておく必要があります。言葉の保管所に置いてある言葉は整理整頓がされていないと綺麗なものを見つけるのに時間が掛かりますし、そもそもエントロピーは増大するものであり、何もしなければ自然と汚れていってしまいます。自らの意思で選び分け丁寧に言葉を磨くという能動的な行動があって初めて、汚い言葉を避けることができるのです。
言葉の種類
言葉は誰かが誰かに送る無形のプレゼントです。よって相手に合った言葉を贈るために語彙力はあったほうが得だとは思いますし、常日頃より言葉を収集することは価値のある行動と言えます。
しかし語彙力に捉われ過ぎるのもまた問題です。不足していては困るものの、あまり多すぎても探すのが大変ですし、前述したように重要なのは言葉の形そのものではなく取り扱い方です。むしろ綺麗に磨かれて優しく使われているのであれば単純で朴訥な言葉のほうが胸に染み入ることもあります。
言葉選びはセンスを問われるところでもあります。その場に合った適切な言葉を選ぶには経験と知識が不可欠です。
だからこそ、『言葉を探す』ことはいつだって留意しておくべきだと思います。知らない言葉を知ること、相手にどの言葉を渡すかを選ぶこと、そのどちらも『言葉を探す』ことと言えるのですから。