ゴールデンウィーク中なので今日も軽い話。お休み中は政治経済やらビジネスやらの真面目なことが頭に浮かんできても上手く言葉がまとまらないので、なるべく気楽な話をします。連休なので頭も休憩中です。
今日は気楽な話として、ヒゲを剃りながらヒゲについて考えていたことでも書いてみましょう。ロクなことを考えていないことがよく分かりますね。
ヒゲは漢字で書くと髭(口ヒゲ)、鬚(顎ヒゲ)、髯(頬ヒゲ)と3種類もありますが、面倒なのでカタカナでヒゲと統一しましょう。個人的には顎ヒゲが好みです、サンタクロースや仙人っぽいので。
ヒゲ剃りは人それぞれ
なぜヒゲについていきなり語ろうかと思ったか。それは先ほどシェービングクリームの使用期限を調べたところ3年くらいということで、数年前に買ったシェービングクリームを1,2回しか使っていないのに捨てるかどうか迷ったからです。
飲食物ではないので使用期限を越えていても問題ないとは思いますが、そもそも私は残念ながらヒゲがそんなに伸びないほうなのでシェービングクリームは使わないのです。電気シェーバーで毎朝1分くらい撫でてるだけです。試しにちょっと使って以来放置されていました。なんで買ったんでしょうね?
ヒゲ剃りに掛かる費用と時間について適当に調べてみたところ、替え刃やシェービングクリームなどで平均して年間1万円程度の費用、一日6分くらいの時間だそうです。この手のデータは脱毛業者や美容業界の誇張も含まれているかもしれませんが、知人と雑談で聞いた範囲ではそこまで外していないデータかと思われます。
つまり私は年間1000円も使ってないヒゲ剃り業界の敵です。とはいえ悪気も敵意もないんです。むしろ不可抗力です。どちらかというとヒゲを伸ばしてみたい側なのですが。私はヒゲを好んでいますが、ヒゲのほうは私を好んでいないようで。
ヒゲは権威の象徴
子どもの頃、歳を取ったら立派なヒゲを生やすことが目標でした。図書館でよく読んでいた偉人伝や歴史書に出てくるおっさん達の多くは立派なヒゲを生やしていたからです。明治の政治家よろしく、私にとってヒゲは権威の象徴でした。おじいちゃんになったら仙人のような顎鬚やビスマルクのようなカイゼル髭を目指したいという頭の悪い目標を持っていたのです。
今は正直ほとんど諦めています。ああいうのは一晩で立派な無精ヒゲが生えるようなダンディな人が出来ることであって、私のような数日放置していても顎に影がまったく出来ない人間が目指せるものでは無いのです。こればかりはテストステロンの個人差であり、努力でどうこうなる範囲を超えています。
人には努力ではどうにもならない領域もあると悟ったのはこのヒゲ問題が人生で最初だったかもしれません。いや、多分最初じゃないですけど。そんな重い話ではないです。
時代とヒゲ
ヒゲが社会に許容されているかは時代と文化によって大きく異なります。日本で言えば戦国時代の武将はヒゲを良しとしていましたが、江戸時代はヒゲ禁止令が出るほどにヒゲを剃るべきだとされていました。明治時代はヒゲを生やす人が多くなり、昭和初期はヒゲを剃ることがモダンでした。その後もヒゲの良し悪しは繰り返しのブームを迎えています。
つまるところ、男らしさが求められる動乱の時代はヒゲが良いものとされ、平穏な時代にはヒゲを剃るほうが良いものとされているようです。これはイスラム圏のような宗教上の理由を除けば欧米でも同様の傾向が見られます。
現代日本は歴史的に見ても平和な時代ですので、身だしなみとしてヒゲは剃るほうが良いとされています。かつてはヒゲがあってなんぼの商売であった政治家や軍人ですらヒゲが無いのが一般的です。逆に反権力・反権威といったロックな人々のほうがヒゲを生やす時代となっています。
まあ、そういうのは関係なしに、私個人としてヒゲは権威の象徴なのです。子ども時代の刷り込みというのはなかなかに記憶から消し難いものです。
結言
人は持っていないもの、手に入らないものこそ羨望しがちなものです。たとえ伸ばしたとしても知人全員から「死ぬほど似合わないから剃れ」と言われることは分かっているのですが、やっぱり私としては歳を取ったらサンタクロースや仙人のようなヒゲを蓄えてみたいものだと、ちょっと考えてしまいます。死ぬほど似合わないことは自分でも分かっているのですが・・・