忘れん坊の外部記憶域

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討論や言い争いは社会問題を顕在化するために必要

 先日の記事で社会問題の解決には討論ではなく議論が必要だという話をしました。

 では討論は不要かと言えばもちろんそうではなく、討論が必要な場面も存在します。今回はお行儀の良い討論(ディベート)に限らずインターネットや紙面上での殴り合いのような言い合いも含めてその存在意義を検討してみます。

 今回の討論や言い争いはアカデミックディベートのような狭義のディベートではなく、ある主題について意見を戦わせる広義のディベートを意味して書きます。

 

塊から削り出す

 民主主義国家における社会問題の解決には議論(ディスカッション)が必要です。何故ならば社会というのは人々の集まりで構成されており、人々はそれぞれ異なる考えを持っているからです。万人が満足することは難しくとも出来る限り社会の紐帯を維持し多くの人が納得できる方向性を見つけるためには、人々の意見を収集し、検討し、調整しなければならず、それが議論を必要とする理由です。

 独裁や専制国家であれば議論無しで強権的に解決策を実施することが可能ですが、それが必ずしも市民の幸福に資する施策になるとは限りません。もちろん民主制であれば絶対的に最適な解が得られるかと言えばそれも幻想ではあります。しかし少なくとも投票権という改善手段を持っていること、そして為政者を選んだ責任が市民に帰することを考えれば民主制による議論を経る方が独裁者が独善的に決めるよりもまだマシです。

 

 しかしそもそもの話、社会問題とはどのように定義されるのでしょうか?

 単純な意味での社会問題の定義は『その存在が広く世間に知れ渡っている未解決の問題』です。しかし社会問題は明々白々な事象として現れるものばかりではなく、従来までは社会通念として通っていた様々な物事が時代の変遷によって社会問題化されてきたように、社会という不定形な塊から削り出されることによって定義されます。ハラスメントやブラック労働のように、世間に知れ渡るためにはそもそもそれが問題であるという発見と問題提起が必要なわけです。

 そのための道具、問題を掘り起こし衆目に示すためのノミとハンマーに相当するのが討論や言い争いです。「誰もが粛々と従っているがよくよく考えるとこれはおかしいじゃないか!」と誰かが声を上げ、それに同意や反発する意見が積み重なり、喧々諤々の討論や言い争いを経ることによって初めて、社会という塊から問題が浮き彫りにされて問題の形が明確になります。

 よって社会問題を顕在化するためには討論や言い争いといった過程が必要であり、その存在意義は大きいものです。

 

問題提起と問題解決は道具が異なる

 ただ注意しなければならないこととして、社会問題における問題提起問題解決は取るべき戦略と必要な道具が異なるということです。

 既存の体制や仕組み、世の中の既得権益というものは堅固なものであり、そこから問題を削り出すには鋭利な道具が不可欠でしょう。だからこそ問題提起においては討論や言い争いによるノミとハンマーが有効となります。

 しかしある程度削り出しが終わって問題の形が明確になった後は、次の段階として多くの人が納得できる解決の形を模索する必要があります。それには粗削りではなくカンナやヤスリで形を整えていくような丁寧な作業が必要であり、それが議論ということです。

 この段階に至ったのであればこれ以上ノミとハンマーを振り回すのは不適切です。下手に削り過ぎればせっかく提起した問題の形を壊してしまいかねません。過去の社会問題における様々な事例を見ても分かるように、強固な過激派がいつまでもノミとハンマーを振り回していたためにその社会問題ではなく過激派自体が問題だとされてしまうような事例は枚挙に暇がありません。多くの人が満足する形を拵えるためには、人々の意見を収集し、必要であれば妥協し、より良い結果を目指して議論を積み重ねるといった泥臭い手間、カンナやヤスリによる丁寧な成形が必要です。

 

結言

 討論や言い争いは社会問題の顕在化と問題提起に不可欠です。しかし問題解決においては討論ではなく議論を必要とします。要は使い処が重要だということです。それがあれば万事解決するというような魔法の杖は存在せず、状況に応じて適切な道具を選ぶ必要があります。

 また得手不得手というものもあります。問題を見つけることとそれを解決することはそれが得意な別々の人がやっても問題なく、それぞれが得意な領域で活動するのが望ましいでしょう。