研究者やエンジニア、デザイナーやクリエイターなど『考えること』が商売の人がいます。そういった人々は知識をたくさん仕入れてそれを思考に活用し、新たな成果物へ加工することが仕事です。
小売業の人が商品を仕入れるばかりで販売しないのでは駄目なように、考えることが商売の人も同様、学んでばかりでなく学んだ知識を活かして思考しなければいけません。学びによる知識はベースの基礎部分であり、その上に思考という構造物を築いて初めて仕事をしていると言えます。
学びを思考よりも下に置いているわけではありません。土台がしっかりしていなければ大きな構造物を建てることはできないのですから、基礎と構造物はどちらも同程度に重要だということです。つまり考えてばかりでも駄目で、知識の入手と思考の出力、インプットとアウトプットは相互にバランスを取って行うことが望ましいです。
生まれるのが2500年以上遅かった
というようなことを考えていましたが、やられました。この手の学びに関する思索をしていると大抵立ちはだかってくるのが古代の偉人。「何をいまさら、すでにその道は紀元前に通っているのだ」と言わんが如く、古代ギリシアか中国からの刺客が襲い掛かってきます。
先述したようなことはすでに中国の孔子が述べています。
子曰、学而不思則罔、思而不学則殆。
子曰く、学びて思わざれば則ち罔(くら)し、思いて学ばざれば則ち殆(あやう)し。
フランクに意訳してみましょう。
勉強してばっかりで頭使わないとあかんぞ、それじゃ身に付かん、そんなのは愚か者の所業だ。
でも頭使ってばっかりで勉強しないのも駄目だぞ、それは独断独善に陥る危険がある。
勉強も、自分の頭で考えることも、ちゃんと両方やるんだぞ。
さすが孔子、それこそが言いたかったことです。
・・・悔しい。私も3000年早く生まれていれば孔子のように成れたかもしれない、とよく分からない傲慢な気持ちはさておき。まあ私のような現代の凡人が考える程度のことは古代の偉人がすでに語り尽くしているのですが、思索における車輪の再発明が悪いわけでもなし、気にしないことにしましょう。
良い再発明、悪い再発明
車輪の再発明とはもうすでに確立されている技術や方法を再び一から作ることを意味する言葉です。現代において車輪を新たに発明するなんて馬鹿馬鹿しい、もうすでに技術は確立されているのだからそれを用いればよく、一から発明するようなことはすべきじゃない、というような無駄を諫める文脈で用いられます。
とはいえ必ずしも車輪の再発明が悪いとは限りません。車輪の再発明には良いものと悪いものがあります。
確かに車輪のようなものを再発明するのは悪いです、それは技術的な蓄積を向上させるものではなく、単純に時間の無駄と言えます。しかし複雑な構造物や思索を伴うものに対しての車輪の再発明は社会全般ではなくその個人にとって有用な場合が多々あります。
例えば車の変速機(トランスミッション)、これは車輪よりも複雑な構造をしており、種類も様々あります。技術的には確立されているもののパッと見ただけで仕組みや構造を把握することはできません。これを知識(know how)として学ぶことはそこまで難しくありませんが、実際に変速機の設計に携わるのであれば何故このような形状でこのような部品を使ってこういう材料を使っているのかといった具体的なことを考え、実際に手を動かして計算し、リバースエンジニアリングをして原理(know why)を学ぶ必要があります。
孔子が述べたようにノウハウを学ぶだけでは駄目であり、学びと思考を両立する必要があります。そして知識を活かして思考するには経験が不可欠です。車輪の再発明はその経験を効率良く行うための合理的かつ経済的な方法と言えます。
それこそプログラミング初学者に対して
「Hello worldなんてすでに完成されたプログラムなんだからコピペするだけでいいよ」
なんて言ってしまっては学習効果が皆無でしょう?『考える』ことのため、思索のためには車輪の再発明が役立つのです。
余談
なんだか以前にも似たようなことを書いたような気がする、と思って検索してみたところ、しっかりと書いてましたね。ははは。
これは・・・悪い車輪の再発明です。