SNSやメディアでは国家や政府に対して何らかの対応や変更を求める声が日々流れていますが、参議院選挙が近くなったためかここしばらくは時にそのような声が多くなっているような気がします。
声を上げること自体には特に否定的ではなく、むしろ肯定的です。もちろん投票行動こそが最大の政治活動ではありますが、民主主義国家における国民には思想・信条・表現の自由があり、自らの思う意見や求めることを声を出して述べて周囲から同意や反論を得たり、各所にその意見を届けることも重要だからです。
誰も読心術を使えるわけではありませんので、思うところを声に出して人に伝える、ということは必要なことです。
安心と安全は異なる
ただ、1点だけ、少し無理筋なのであまり推奨しない意見があります。
それは国家や政府に安心を求めること、不安だからなんとかしろということです。それは政治的に解決できる問題ではないため、たとえ求めたとしてもなかなか解決には向かわず、不満が募り不安感がより増す結果となりかねません。
国家や政府、もっと広く言えば組織や集団が構成員である個々人に絶対的な安心を与えることはできません。なぜならば安心とは物理的な現象ではなく、気持ちの問題だからです。
安心と似た概念に安全があります。どちらも静穏で安寧である状態を表す言葉ではありますが、詳解すると少しばかり違う意味合いを持っています。
安全とは定量的な数値で示すことができるもので、客観的であり、規制や規則によって管理することが可能なものです。
対して安心とは定性的で数値化できず、主観的であり、規制や規則によって管理することが不可能なものです。
具体的な例で考えてみましょう、例えば車の運転における安心と安全です。
車の運転における安全とは、車がきちんと整備されており、油やタイヤに損耗が無く、道路交通法を遵守して整備された車道を走り、人が飛び出してこないような環境になっているような状態を指します。つまり定量的なリスクを算定でき、それによるリスクアセスメントをできるものが安全です。
それに対して車の運転における安心とはもっと個人的で定性的で主観的なものです。車検を通ったことが不思議なくらいのオンボロ車であっても何も気にせず平気な顔で運転する人もいれば、新車に乗っていても運転が怖い人だっています。自分の親が運転している時は何も不安に思わない子どもが、人の親の運転する車に乗った時は安心できないことだってあります。つまり具体的な数値化ができず、判定基準を決められないものが安心です。
安全の改善は具体的な行動を示すことができます。しかし安心の改善はそれを求められてもどうすればいいかを決めようがないのです。
求めるべきは安全の量(リスク)の改善
つまるところ、「この安全では私は不安だ、だから私の不安をどうにかしろ」という要求は無理筋だということです。その安全の量で安心できるかどうかはそれこそ人それぞれであり、個別に対応することはできません。言っている当人でさえどこまでリスクが減れば自分が安心できるかということには答えようが無いと思います。
だからこそ、求めるのであれば「この安全では私は不安だ、だからこの程度までリスクを減らせないか」という方向が良いでしょう。定量的な安全の量、つまりリスクを下げることであれば客観的に改善効果を示すことができますし、求める側の要求と求められる側の行動を具体化することができます。
安心を軽視しろということではなく
もちろん安心感というものは大切です。コントロールできるものではないからといって軽視していいものではありません。
民衆から安心を過度に求めるのは控えたほうが良いとは思いますが、デマの駆逐や活動詳細の広報、専門家と民間人の交流の活発化など、国家や政府の側は国民に安心感を与えるための施策を出来る限り打つべきです。どれだけ安全な環境であっても安心が無ければそれは安定ではないのですから。
政治の本質は治めることであり、それはすなわち民草に寄り添い人心を安んずることにあるのだと、特に政治家の方々には忘れないで欲しいと思っています。
余談
とはいえ、多少極論ではありますが、国家や政府が個人の気持ちにまで干渉してこようとするほうがむしろイヤじゃないですか?それは『1984年』や『パラノイア』のようなディストピア待ったなしのような気がしてしまいます。
「Happiness is Mandatory. Citizen, are you happy?」
「幸福は義務です。市民、貴方は幸福ですか?」
と国家や政府に聞かれるなんて、たまったものではありません。そんな個人の心情にまで首を突っ込んでくるようなことはされたくないものです。