世の中が荒んで見えるのは、それを見ている人の心が荒んでいるからだ
というような言葉を適当に考えたのですが、いや、まあ、それは極論だよなぁ・・・と、おじさんが金型の研磨をしている動画を見つつ思いました。
おじさんが金属加工をする動画は熟練の技術に惚れ惚れしますし、不思議と心が落ち着きますのでおススメです。ちょっと?ニッチだと思いますので、どういった層におススメしているのかは自分でもさっぱり分からないですけども。
おじさんが真面目に黙々と仕事に励む姿はこう、なんというか、荒んだ心を癒す効果がありますね。これは多分技術屋の職業病だとは思いますが。
ただ、下の記事を見てなんとなく悲しくなっていた気持ちが少し癒されました。
在宅勤務中に「ハラスメントがある」と感じている女性は2割いることが、メンタルヘルステクノロジーズ(東京・港)の調査でわかった。
(中略)
そのうち30%が在宅勤務中に社内でのハラスメントを感じると回答した。「感じる」と回答した人の割合は男性(38%)より低かったが、女性でも23%いた。
おじさんの受けているハラスメントは記事タイトルに取り上げてもらえないんだなぁ・・・いや、まあ、記事の趣旨や記者の意図は分かるのですが、おじさんに哀愁を覚えました。でも仕方がない、それがおじさんの背負うべきもの・・・かもしれません。異論があるのを百も承知で極論を引っ張ってくれば、「現代社会で倫理的にぶん殴っても許されるのはおじさんと白人男性」なのかもしれませんし。(心が荒んでいる人の意見)
私は誰も彼もが殴らない世の中のほうが好きですけどね・・・
自責と他責のバランス
話が逸れてしまいました。何を書きたかったのか・・・そうです、荒みについてです。おじさんの話がしたかったわけではないのです。
荒んでいるのは自らの心なのか世の中なのか、それは換言すれば自責か他責かと言えるでしょう。世の中が荒んでいると感じるのは自分が荒んでいるだけかもしれませんし、実際に世の中が荒んでいるのかもしれません。
そもそもこれらは相互作用によるものでもあり、心が荒んでいる人が増えれば世の中も荒んでいき、世の中が荒んでいれば人の心も荒んでいくものだと考えます。
世の中の風潮としては自らに責任があるとする自責思考のほうが望ましいとされていますが、相互作用である以上どちらかに偏って考えるほうが視野狭窄となって問題です。それよりも一度立ち止まって自責と他責の双方の視点で考えてみるのが良いかと愚考します。
どっちが荒んでいるかは重要ではない?
よくよく考えてみると、心と世の中のどちらが荒んでいるかはさほど重要ではないかもしれません。個人にとって解決すべきは荒んでいて辛いという心の苦しみであり、釈迦の「毒箭の喩え」のように、原因よりもまずは問題の解決を優先すべきだと考えます。
そう考えるとやはり「自責思考であるべきだ」というような単純なことは言えないわけです。「苦しいのは私の心のせいなんだ、だから苦しまないように心を入れ替えよう!」となれる人なんてレアケースであって、それよりも「苦しいのは私の心のせいなんだ、私は駄目な人間だ・・・」と落ち込んでいってしまう方が多いでしょう。それでは苦しみからの解放を果たせません。
そういった場合はひとまず他責によって世の中に原因を押し付けてしまうのも一つの手と言えます。苦しいのは世の中のせいだと考えればそれだけ心の負担を軽減することになりますし、少なくとも落ち込みの沼に沈み込むことは避けられます。
自責と他責を使い分ける
とはいえ「常に他責であるべきだ」とも当然言えません。他責は心の負担を軽減することには資するでしょうが、それによって目先の苦しさから逃れられたとしても根本的な問題が解決するわけではないからです。
残念ながら、どれだけ何か自分以外のものに責任を求めてもそれが自分の苦しさを生涯解消してくれることは無く、苦しみから逃れるためには自責によって自らを変革し、苦しみを感じないようにする以外はありません。
なにより常に外部に責任を押し付けるのは、それもまた苦しみを産んでしまいます。常に外部が悪いと考えていては「そんな悪い世界に囲まれて生きているのは辛い」という思考になりかねないからです。
しかし心が苦しい時に自責の念を持って自らを改革しようとするのは無謀というものです。よってまずは心の苦しさから逃れるために他責を使い、余裕がある時には自責で考える。そのように適切なバランスを保って使い分けることが望ましいでしょう。
余談
(ここまで書いて思い出したのですが、同じような話をしたことがある気がする)