人が争いに至る理由は様々ありますが、その根源自体はとてもシンプルなもので、私たちが「貴方と私は違う」存在だからです。
たとえどれだけ似通っていたとしてもどこかしらに何らかの違うところがあり、その差異が争いの根源になります。
極論、自分のクローンが存在したとしてもそれは自分とは異なる存在であり、異なる経験や異なる意識を持っている以上、争いに至ることがあるでしょう。
もちろん異なる存在であることが全て争いに繋がるわけではありません。差異を補い合う協力関係を築くこともあれば、差異を認め高め合う研鑽の関係を生むこともあるでしょう。反発し合って衝突に至らないこともあれば、そもそも差異が大きくて交わらないことだってあります。
争いはそういった人間同士の関係性、リレーションシップの形態の一つです。
争いの終着
一度構築された関係性はしかし不変というわけではありません。不倶戴天の敵と思っていた人が味方になったり、逆に良好な関係を築いていた人々が敵対することは起こり得ます。
関係性の変化が発生するには様々な転機や事情があるものですが、ここで重要なのは関係性は変化し得るものだということです。
関係性の変化について、大人と子どもを事例として説明します。
時に子どもは喧嘩をしますが、多くの場合はそこまで時を置かず後日に異なる関係性を再構築することになります。それが仲直りか、疎遠かは別として、一度敵対に至った関係性が解消されることはままあると言えるでしょう。
少なくとも敵対者の排除という決定的な関係性の崩壊に至ることは稀です。もちろんそのような事態に至らないわけでは決してありませんが、一方の転校やクラス替えのような引き剥がしが必要になる事態はそうそう多くありません。
それに対して大人の場合、争いに至らないよう回避する術は子どもよりも卓越していますが、一度こじれて争いに至った関係性が再構築されるには多くの時間と労力が必要になり、時には関係性の修復にまで至れない場合もあります。
それが集団同士であればさらに深刻な問題となります。有名どころとしては西武グループでの兄弟の確執による歴史やトヨタグループと三井住友銀行のかつての不仲など、関係の再構築に数十年を要するようなケースも枚挙に暇がありません。
大人と子どもで争いの終着に差が出る理由は単純で、大人は力が強く、子どもは力が弱いからです。
もちろん「力」とは単純な腕力という意味だけではありません。財力や権力のような様々な点で、相手を打ちのめす力も、相手から距離を置く力も、子どもよりも大人のほうが強いからです。
子どもの決着は低レベルか?
しかしここで考えるべきは、子どものように短時間で関係性を構築できる程度の争いは低レベルで、大人のように互いに滅ぼし合うような争いをするのは高レベルと言えるのか、ということです。
大人の争い方、すなわち「敵」を殲滅するかの如く激しい争いを繰り広げるのはそれが高等だからではなく、ただ力が強いからだと考えます。
確かに大人の喧嘩は子どもに比べて派手なものです。腕力の剣を一振りすれば敵を打ち倒すことができますし、財力の槍で敵を一突きに葬ることもできます。権力の杖を振ればそれだけで敵対者を亡き者にすることもできるでしょう。
しかし、たとえ喧嘩をしても次の日には仲直りをするような関係性の構築力。柔軟性を持って紐帯を維持するという行為。幼少期にはできていたそれを大人が自らの力が強くなったことに無自覚であるがゆえにできなくなっているという点で、むしろ大人の争いのほうが子どもの争いよりも低レベルなのかもしれないと私は考えています。
結言
私たち大人は自らの持っている力を行使することの意味を重々理解し、自覚し、むやみやたらに振り回すことを戒める必要があると、そう愚考します。「敵」を打ち滅ぼすというのは、ただその力を保有しているというだけで、何も決して高度な選択肢ではないのですから。