私はそもそも争い事自体が好みではないです。痛いことよりも楽しいことのほうが面白いので。
そのため好き嫌いや快・不快による感情的見解として個人や集団の争いや国家の戦争には反対だと述べていますが、今回は一種の思考実験がてら、別の視点、合理性の観点からの戦争反対論を展開してみます。
特に防衛はともかく、外征(外国へ軍隊を出兵すること)への反対論です。日本が他国に攻めるなんてとんでもない話だということを理屈によって考えます。
専門家ではないので大した論理を展開できるわけではありませんし、そこまで新しい視点での見解でもありませんが、愚策は無策に勝ると考えています。よって意見の手札は多い方が望ましく、戦争を避けるためには複数の切り口による意見を持つことが有効だと、そう考えての一意見です。
(別の合理的観点による意見:争いは損失である)
前提となる情報
今回外征に限定している理由は、過去から現代に続くまで、戦争では「相手の国に軍隊を送り込む」ことが不可欠だからです。
核戦争を除いて、ミサイルや飛行機、ドローンや爆弾のみで相手国が降伏することはなく、必ず軍隊を直接的に送り込む必要があります。アフガニスタンへのソ連やアメリカの派兵、中東戦争における陸戦兵力の重要性、フォークランド紛争におけるイギリス陸軍の意味など事例は無数にあり、逆に陸戦兵力無しに戦争が終わった事例はほとんどありません。
より近い事例では、2020年ナゴルノ・カラバフ紛争においてアルメニアが最終的な停戦協定に合意したのは首都近くの土地まで占領されて首都陥落の危機に至った後でした。
また2022年ロシアのウクライナ侵攻において、開戦初期に複数の都市がミサイルによって攻撃されましたが、ウクライナはそれによって降伏する道を選択していません。
日本が本気で他国と戦争できる国になったと言えるようになるには、戦力を国外に投射する能力、外征能力が不可欠になるということです。防衛だけであれば矛の役割を米軍に任せることができるため外征能力は不要ですが、もし日本から戦争を起こすのであれば外征能力が無ければ話になりません。
よって今回は日本が外征能力を持つことは不可能だということを検討することで、日本は戦争をすべきでないという反対論を展開していきます。
兵站という概念
軍事には兵站(ロジスティクス)という言葉があります。これを一言で説明できる人はまず居ませんし、専門書を何冊も読まなければ到底理解できるものではないのですが、物凄く単純化してしまえば戦闘以外の全てに関する言葉です。もう少し言えば戦闘・戦術・戦略を上手く進めるための準備や手配を指します。
https://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E5%85%B5%E7%AB%99
兵站とは (ヘイタンとは) [単語記事] - ニコニコ大百科
(アンサイクロペディアやニコニコ大百科が意外としっかりまとめているので驚き)
軍隊は戦場で戦うものです。そのために、その軍隊をどう移動するか、食料・水・武器・その他物資をいつからどれだけ用意してどこに保管してどうやって運ぶか、基地はどこに誰が建ててそのための資材はどうするか、それらを実行するための訓練は誰が計画して誰にどこでやらせるか、それらに必要なお金や人員はどうするか、そういったありとあらゆる戦闘以外の全ての行動を兵站と呼びます。
物資を運ぶだけでも計画をするのは大変です。例えば陸路で運ぶと決めたとして、物資はどこでどれだけ買い付けて、梱包形態を決めて、どこに保管して、運ぶためのトラックや車をどう手配して、どの運送ルートを使って、誰に運転させて、給油や補修はどうやって行って、故障やトラブルへの対応策をどうするか決めて、護衛はどのくらい付けて、と気が遠くなるような細部の計画立案が必要になります。
「兵站だけでは勝てないが、兵站の欠如は必ず敗北する」
そんな兵站という概念ですが、大日本帝国は兵站軽視によって負けたという意見があります。
確かに「輜重輸卒が兵隊ならば、蝶やとんぼも鳥のうち」と揶揄する歌が当時歌われる程度に兵站を軽視していたことは間違いありませんし、実際戦場で戦う兵士に武器や食料をちゃんと供給できなかったことが大日本帝国の大きな敗因であることは疑いようがありません。
個人的には送る兵站物資がそもそも本国にも無かった、つまり兵站以前に戦略の時点で負けていたと思っていますが、いずれにせよまともな兵站を実行できないのであれば戦争などすべきではありません。これは日本が先の大戦から学ぶべきことの大きな一つだと考えます。
外征なんて無理!
翻って現代の日本を見るに、外国へ軍隊を大掛かりに展開するのは絶対に不可能です。防衛にすら不足している状況でその何倍もの資源が必要になる外征なんてまったく現実的ではなく、どうあがいても大日本帝国と同じ轍を踏む以外の未来はあり得ません。兵站の観点からみて、日本にその能力は無いのです。
現在大規模に海外へ軍隊を展開しているのは米国のみです。これは世界最大の経済大国がGDP比4%という莫大な軍事予算を使うことによって実現されているのであり、中国ですら長期で大規模な軍隊の海外展開は出来ていません。
日本で同様の事を行うのであれば、今年議論されていたGDP比2%なんて予算では到底足りず、米国並みの予算が必要になるでしょう。それは増税では到底賄えず大規模な国債発行とそれに伴う物価高騰が不可欠で、それに日本の経済はどう考えても耐えられません。
第二次世界大戦においては各国で国家予算並みの戦時国債を発行して戦費を賄っていましたが、あれは世界中で同様に山ほど戦時国債を発行していたから相対的にインフレが吸収されていただけであり、今、日本が単独で山ほど国債を発行して軍事費を増加させたらあっという間にインフレで経済が死にます。
これを本気で整えるのであれば中国が一つの参考になるかと思います。中国は海軍を用いて戦力を海外へ投射する能力の獲得を1980年代から構想し始め、その最終的な実現を2040年までとして進捗しています(中国人民解放軍近代化計画における第一列島線・第二列島線)。2020年までには第一列島線である台湾を侵略する予定だったため計画に遅れは出ているものの、近年の空母戦力の拡充や台湾を包囲しての軍事演習など、計画は今なお続いています。
その是非は本記事の主題ではないのでさておき、海上輸送という前提はありますが、中国ほど巨大な人口を抱える国家であっても近隣国への侵攻能力を獲得するのに半世紀以上は掛かるということです。
結言
つまり、どれだけその意志を持ったとしても今の日本にそれを実行できる能力はありません。
残念ながらある種の人は「意志さえあればなんとかなる」「意志があれば願望を実現できる」と考える節があります。
しかし無理なものは無理であり、できないものはできないのです。
なので、私は感情的理由においても戦争に反対していますが、能力を保有していないのだからそもそもそんな意志を持つべきではないという合理性の点からも戦争に反対します。
先の大戦から私たちが学ぶべき教訓は、無理なものを無理ではないとして無理に進めることは無理である、だと思う次第です。