忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

中道と、たまに極端な意見を述べる理由

 度々言及しているため多少くどいかもしれませんが、私は基本的に中道を好みます。

 この中道とは一般にという意味ですが、それは両論の真ん中ということではありません

 類似の言葉としては中正、中庸、中観があります。つまり、どこかに偏らず、中立公正で、調和が取れていて、両論の矛盾対立を超えることが中道です。両論の真ん中を常に選ぶというのは真ん中に偏っているのと同義であり、それは中道的姿勢とは言えません。

 さらに単純化して言えば、中道とは「極端」の反対です

(厳密に中道を語ると宗派ごとに異なる見解があるのですが、長くなるので単純化します)

 

 棒には必ず両端があるように、ある極端に対して必ず反対の極端が存在するものです。

 「成功」を例として考えてみましょう。

 ある人は「他者から認められる成果や実績を得ること」を成功と考えます。

 別の人は「自分が満足できる成果や実績を得ること」を成功と考えます。

 中道からすれば、このどちらが絶対的な正解だと峻別することはしません。

 価値というものは相対的である以上、他者が認められるものに限るというのもまた事実ですし、如何なる事象であろうと自身というフィルターを通して受け取る以上、自己の満足によって価値の要否が定まるというのもまた真でしょう。人によってどのように成功を定義してもいいものであり、どちらもそれぞれにおいて正しいものです。

 

 しかし誰かの極端はその反対側にある極端とぶつかり得るものであり、他者評価と自己評価の人がそれぞれの判定基準を用いて相手を評価することによって相手に不満足を与えるような、見解の衝突が起きることもあります。

 中道はその衝突が起きないよう避けることを良しとします。

 一例としては、自己評価の基準を他者評価の基準に寄せることで、他者に評価されることが自己満足に繋がる互恵状態とするような方法が考えられます。他にも基準となる境界を作成することで個別に評価して干渉を避けるなど解消方法はいくつか考えられるでしょう。

 どのような選択を取るにせよ、両論が衝突して摩耗しないよう調和を図り、矛盾対立を乗り越え、闘争を避け得る方法を探すことが中道的見地と言えます

 

 もう一つ例示として、昨今話題となっている安倍元総理の国葬儀を挙げてみましょう。

 【安倍元総理の国葬は「1時間半程度で簡素な形式」政府】というニュースがありました。一見すると賛成派と反対派の間を取った妥協的な中道の姿勢に見えますが、実のところこれはまったくもって中道ではありません

 何故ならば、賛成派からすれば簡素であることを望ましくないと思う人がいるでしょうし、反対派からすれば簡素だろうが豪奢だろうが関係ないからです。両論がそれぞれ納得し得る形ではなく、むしろ両論それぞれから不満を呼び起こすようなものであり、これは中道ではなくただの中途半端に過ぎません。

 やるならばやる、但し反対派が納得する形を持って。

 やらないならやらない、但し賛成派が同意できる理由を提示して。

 中道の主題は両論の狭間で曖昧な位置に立つことではなく、矛盾対立を超えて双方が納得する形を提示することです。

 

極端な意見を述べる理由

 極端を避けることを良しとする中道の考え方を私は重視していますが、極論であると前置きをしつつ、極端な見解を述べることも時々あります。

 その理由についても説明してみましょう。

 

 実のところ、普段の記事で述べている私の個人的見解は誰かからの同意を求めているものではありません。私はこう思うというただの発信であり、こういう意見もあるというただの提示です。

 それに対して極論を述べる場合は、明確に他者からの意見を求めています。その極論に同意を得たいのではなく、むしろ違う意見の人に読んでもらいたいのです。

 私が極論を述べる時というのは、自身の思考がどこかに偏っていて、反対の意見が見えなくなっている場合です。中道を探るためには反対側の意見が不可欠ですが、それが見えなくなっている、だから反対側の極端な意見を知りたいという発想から片側の極論を述べています。

 そのため、私が何かしらの極端なことを言っているのを見かけて、もしそれに反対であれば、むしろ積極的にその御意見を提供頂けますと幸甚です。

 

(類似の記事:噛み砕いた表現での中道)