たまにはいつもと路線の違う雑談をするのも面白いかと思いますので、今回は大仰な社会問題や組織集団論ではなく、物語、それも趣味的な部分について語ってみましょう。
悪役をどう描くか
多くの物語には敵役が存在します。敵役側を主題として描く物語もあることから必ずしも敵役は悪役とは限りませんが、多くの場合主人公側は善として描かれることが多く、敵役として登場するのは善と敵対する悪役です。
悪役の仕事は物語の起承転結で言えば転、三幕構成で言えば対立にあたる部分で活躍することです。物語が進むということはすなわち動的な変化が起きているということであり、主人公たちが迎える転機・ターニングポイントとして立ちはだかるべき存在、変化の象徴こそが悪役となります。
どれだけ主人公に感情移入できるかと同程度に、どれだけ強大な対立を描けるか、もっと極端に言えばどれだけ悪役を魅力的に描けるかが物語の完成度や盛り上がりの大きさに直結するものです。
三幕構成と悪役
三幕構成とは物語を3つに分割して構築する考え方です。似たような概念には序破急や起承転結があります。
詳しくは三幕構成に関する書籍を読んでもらうこととして、ここでは大雑把かつ簡潔に三幕の意味合いと悪役の役割を考えていきましょう。
第一幕は設定と導入(Set up)です。
主人公の日常や出会いを描き、物語を構成する設定やキャラクターを出して、物語の全体像を示します。
特に必要なのがセントラル・クエスチョン、すなわちこの物語の主人公は何を達成することを目的としているかという主人公の芯を描き出す必要があります。このセントラル・クエスチョンこそが物語の核の部分です。
ピンチやクライマックスといった盛り上がり所を長尺で描きたいせいかこの導入を簡略化した作品も多々あるのですが、この幕をどれだけ丁寧かつ実感的に描き出すかが物語への没入感を左右すると言えます。
幕の終盤に主人公は日常から変化への転機を迎えます。このターニングポイントによって物語が動き出すのです。そのきっかけを生み出すのも悪役の仕事の一つとなります。
第二幕は対立と衝突(Confrontation)です。
最初の転機によって動き出した物語に従い主人公には物理的・心理的に様々な障害と苦難が訪れ、それに主人公が立ち向かう様が描かれます。
この幕において重要なのは主人公の成長です。多くの物語では仲間や指導者に導かれて悪役と対立する様を描くことで主人公の成長を描き出します。
この幕の最後では主人公にとって最大の危機となるミッドポイントとそれによって発生する第二のターニングポイントが描かれます。障害や苦難を乗り越えてきた主人公が、それでもなお立ち向かうことに困難を覚えるような強大な悪役や試練、その落差がクライマックスの盛り上がりに直結することから、魅力的で強大な悪役を如何に描けるかはとても重要です。
第三幕は解決(Resolution)です。
最大の危機によって危地に陥った主人公がそれでもなお最大の障害に立ち向かう様であるクライマックスが描かれます。
この幕において重要なのは変化の証明です。登場時の主人公では到底敵うはずがない最後の試練に立ち向かうことで、物語を通して主人公が成長を遂げたことを見せつける必要があります。
変化の仕方によっては必ずしもハッピーエンドで終わることはありませんが、第一幕で提示されたセントラル・クエスチョンに対する解決が何らかの形で為されるのがこの幕となります。
物語に必要なのはそれを見た人の納得と満足です。結末がハッピーエンドであろうとそうでなかろうと、物語の展開に対する納得とこの物語を見て良かったという満足こそが重要であり、その納得と満足は主人公のセントラル・クエスチョンが一貫していて変わりなく最終的に達成されたかどうかによって決まります。
例として、物語によくあるのが「家族のために戦う父親」という構造ですが、例えば映画『コマンド―』のように「愛娘と共に幸福な日々を過ごせるか」ということがセントラル・クエスチョンであれば、主人公は必ず生還しなければなりません。しかし映画『アルマゲドン』のように「愛娘の生きる地球を救えるか」ということがセントラル・クエスチョンであれば、主人公がたとえ生還できなかったとしても物語としてはセントラル・クエスチョンが達成されているため、見た人も物語の結末に納得と満足ができる、ということです。
悪役は作者の個性が出やすいと思う
以上のように、悪役とはセントラル・クエスチョンを達成するための転機や障害として配置されるものです。悪役が活躍したり退場することそれ自体はセントラル・クエスチョンを達成するための道具に過ぎません。
つまり物語の主軸とは無関係である以上、悪役がどう描かれ、どう退場するかは物語の本筋からは離れているとも言えます。
通常は勧善懲悪として悪役には悲惨な結末が与えられるものの、新たな悪事に走る者、改心する者、罰を受ける者、そもそも末路が描かれない者など、悪役の退場をどう描くかは作者によって実に様々です。
個人的な趣味ですが、物語の主題ではないこの部分、悪役をどう描きどう退場させるかに作者の思想が顕著に表れると思っています。
なにせ主人公はある種の理想像を体現し、セントラル・クエスチョンを達成し、見る人に満足を与えなければならないという制約があるのに対して、悪役は障害としての役割を果たしていれば後はどうでもよく、どう描いてどう退場させるかはまさに自由であり、作者の趣味嗜好が直接的に表れやすい部分だからです。
悪いことをした奴は何があっても地獄に落ちるのか、改心して善の道へ進むことができるのか、悪のまま生き続けていくことが許されるのか。そもそもどのような考えを持って、どのような悪事を働くのか。
少し露悪的な楽しみ方かもしれませんが、悪役のキャラクターというのは案外露骨に作者の思惑が見えて見所のある部分ですので、そういった視点で悪役の活躍を見るのも楽しいと思います。