忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

民主主義国家において暴力革命は推奨されない

 主義主張は人それぞれであり、それを人に押し付けさえしなければ、どのような信念や考えを持っていても個人の自由であって他者が構うべきものではないと思います。

 信念の押し売りをせず、互いに適切な距離感を保ち、それぞれの主義主張に対して敬意を払って領域を侵食し合わなければ、無駄な衝突が発生することもなく世は事も無しです。

 

 ただ、個人的にあまり同意できない主義主張があります。

 それはレーニン的な、古典共産主義における暴力容認の思想です。

 

暴力革命は万能ではない

 厳密に言えばプロレタリア暴力革命不可避論それ自体を否定したいわけではなく、日欧米のような民主主義国家でそのような暴力革命を検討することに同意できないと考えています。

 

 レーニンが主張したいこと自体は同意しないまでも理解はできます。ブルジョワ国家を打破してプロレタリア国家を作る、すなわち資本主義を打倒して共産主義を実現するためには暴力が不可避である、というのは概ね現実に近いでしょう。資本主義はブルジョワ資本家に有利な仕組みであり、既存の仕組みの範疇ではこの階級が覆ることは無いのだから、暴力によって仕組み自体を壊すしかない、となるのは論理的な帰結として有り得ます。

 

 ただ、それは独裁・専制国家における当時の農奴や平民に対して適用可能な論理です。民主主義国家において適用可能な論理ではありません。

 民主主義国家における選挙とは「血を流さない革命」であり、独裁・専制と異なり民主主義では暴力を用いることなく権力者を引き摺り下ろすことができる仕組みを持っています。固定化されがちな階級を攪拌するための仕組みがすでにあるわけです。それを無視してわざわざ暴力に頼る必要はありません。民主主義国家において資本主義を打ち倒したいのであれば民主主義の仕組みを使うべきであり、暴力革命に走る必要は皆無です

 

 言葉を整理すると、暴力革命は「資本主義」を打倒するためのものであり、しかしそれは「民主主義」の中で行うものではない、ということです。

 

非民主的な方法を取った先にあるもの

 民主主義国家において暴力革命を目指した人は過去に様々居ましたが、少なくともそれが成功した後に民主主義が保たれた事例は寡聞にして知りません。暴力革命が成功した後は独裁・専制国家と変貌します。

 なぜならば民主主義国家では言論を用いて多数派を形成し、嫌みな言い方ですが数の暴力を行使することが正しい方法であり、物理的暴力を振るうのは間違いだとされているからです。

 民主主義国家において物理的な暴力を用いる誤った方法では賛同者を多数集めることは困難であり、否応なしに少数派による暴力となります。それはレーニンの考える暴力革命とは異なる様相を呈することでしょう。レーニンの考える暴力革命とは多数派のプロレタリアートが少数のブルジョワを打ち倒すことなのですから。

 

 少数派による権力の簒奪と行使を世間ではなんと言うのか。

 それは独裁専制と言う他ありません。

 

結言

 以上より、民主主義国家による暴力革命は必ず独裁や専制政治を再生産するだけの結果に終わると考えることから、個人的には同意しかねます。階級社会を打倒するためと言いつつも新たな独裁者・専制者を生み出してしまうのは本末転倒としか思えません。

 そもそも民主主義国家における暴力革命とは否応なしに他者へ思想を押し付けざるを得ない考えです。少数派が暴力によって権力者を打倒した後にそのまま独裁・専制を行うにせよ、民主的な正当性を求めるにせよ、その暴力行為の果ての権力を正当であると皆に認めさせる必要があるからです。

 それは主義主張を人に押し付けるということであり、すなわち否応なしに思想の衝突が起こる思想であり、それは冒頭で述べたように私の好みではありません。

 

 

余談

 本気で暴力革命を狙いたいのであれば、民主主義国家であればまずは「暴力によって権力者や資本家を打倒してもよい」という考えを多数派にすることから始めるべきでしょう。それこそが民主的な手続きというものです。

 まあ、その考えが多数派になった時点で、暴力革命なんてやるまでもなく選挙で権力者や資本家を打倒できるとは思いますが。