とにかく金があればいい、と思うほどの欲もなく、
お金なんていらないよ、と厭世的なわけでもなく、
さりとて必要よりもちょっとは余剰が欲しく、
あればあるだけ無駄遣いするので不要だとも思う、
私にとってお金とはそんな存在です。
適量とは何ぞや
元々そこまで物事や物品に執着する質ではないため、お金は必要な分だけあれば良かろうという精神です。知識オタクなのでお金よりも知識が手に入った方が嬉しいですし。知識はいいですよ、質量も体積も0なので。
お金もまあ、あるに越したことはないのですが、どうせ必要以上に持っていてもロクな使い方をしない豚に真珠ですので、緊急時に困らない程度の貯蓄と日常におけるアレコレの用を弁ずる程度に持っていればいいと思っています。
とはいえ、お金はどの程度が適量かは判断が難しいところです。
例えば先日スマホを落として壊しましたが、新しいスマホをポンと買い替える程度のお金はまあ持っていたい、かといってポンポン買い替えて新しい機種を使いたいというのは贅沢な気がする、というくらいが適量でしょうか?
そもそも適量とはどのくらいかと考えると、ミニマリストとマキシマリストが考えるそれぞれの適量は比較にならないほど異なるでしょう。
そういった個々人の思考に基づく適量ではなく、もっと普遍的な”適量”、古の賢者が語る「足るを知る」を求めたほうが良いのかもしれません。
「足るを知る」を知る
道教の始祖である老子の言葉「足るを知る」ですが、では今の私は「足るを知る」ことができているのかと言えば、そもそも「足るを知る」とはどの程度足ることを知っていればいいのか分からないため、まずは「足るを知る」ことを知ることから始めてみましょう。何を言っているのか分からなくなってきました。
足るを知るの元は知足者富(足るを知るものは富む)という言葉です。前後を合わせて意味を考えていきます。
知人者智、自知者明。
勝人者有力、自勝者強。
知足者富、強行者有志。
不失其所者久。
死而不亡者壽。
人を知る者は智恵を持っているが、己を知る者はより優れた智恵を持っている。
他人に勝つ者は力を持っているが、己に勝つ者はより優れた強さを持っている。
満足を知る者は豊かであり、努力を続けるものは志を持っている。
それらを知るものは長生きし、たとえ死しても志を失わない者こそが長寿である。
厳密な現代語訳ではありませんが、概ね意味合いは通じるかと思います。
時に「足るを知る」は「今あるもので満足する」、つまり現状追認的な「分をわきまえる」の類語として用いられることがありますが、原文を見るとそう言っているようには見えません。
何故ならばその後ろの言葉で努力することを肯定しているからです。「足るを知る」ということは向上心を否定するものではないということでしょう。
とはいえ高望みをしたり必要以上に持つことを推奨しているわけでもなさそうです。己を知るということは自身にとって何が必要かを知ることであり、己に勝つということは克己心によって余剰な我執を捨て去るということだと考えます。
結言
今よりも多く得たいという人間の欲を否定はせず、得るものを増やしたければ智慧を磨き自己を律し努力を怠らないこと。
しかしその努力によって得てきたものや得たものに不満を持つことは戒める。得られたものに不満を持つことは自身の努力以上の対価を要求する乞食となりかねないものである。
己を理解して、己の欲に打ち勝つ人であれば得たものに満足することができる。
満足はゆとりを生み、それゆえに豊かな心を持つことができる。
つまり「足るを知る」とは、今あるもので満足するのではなく、得られたものに満足することだと解釈します。
老子が何を考えてこの言葉を残したか、この言葉をどう受け止めるかはもちろん人それぞれですが、私はこのように解釈することにします。
余談
ブラック企業の経営者が薄給の言い訳に悪用できそうな概念のため、この「足るを知る」を他者に適用するのは厳に戒められるべきとも思いました。