忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

善意の製造責任

 製造物の欠陥によって損失が生じた場合、製造者の損害賠償責任を定めた法律が多くの国で存在します。日本でも製造物責任法があり、これは欧米に倣ってPL法(Product Liability Law)という名称で呼ばれることもあります。

 SDGsの目標12「つくる責任 つかう責任」でも謳われているように、商品やサービスを実際に使って行動する人に限らずそれを作った人にも様々な責任が伴うということです。

 今回はそんな責任問題について考えてみます。

 

前提:責任とは

 責任とは結果の責めを負うことですが、原因と結果が明確な自然現象とは異なり責任を負うかどうかは人の定めた法則によって決まります。

 包丁は人を殺傷することができますが、包丁を用いた事件が起きても製造者はその責任を負うことがないように、テロリズムのために爆弾を製造した人は、たとえ自身で起爆しなくとも爆破事件の責任を負うように、単純な因果ではなく人が定めた法律に基づいて定められるのが責任です。

 

感情の売買

 人が作り売るものは何も商品やサービスだけではありません。人の感情だって売り物のように取り扱われることがあります。

 人の善意を金銭に変えたり、親切心に見せかけた詐術で人の金銭を掠め取る詐欺師などが分かりやすい事例でしょう。人の忠誠心や信念を金で買うのも一種の感情売買です。

 もちろん悪い事例ばかりでなく、映画やドラマ、旅行や体験のように感動や喜びといった感情的付加価値を持った商品やサービスを販売する人もいます。

 

 これら感情を付加価値とした商売では、どのような感情が生成されるかは受け手に依存するもののため、実際にどのような感情が発生したかに対して製造者は責任を負いません。

 たとえ絶賛されている映像作品を見てまったく楽しめなかったとしてもそれで製造者に責任を追及するのは筋違いとなります。面白くなかったという批評は自由ですが、楽しめなかったことに対する責任は製造者には生じないわけです。

 また、逆に言えば自身の感情の取り扱いは「それを生み出した製造者である自身」が負うべき責任とも言えます。

 

 ただしハラスメントは別です。前述したように責任を負うかどうかは人の定めた法によって定まるものであり、ハラスメントでは他者へその感情を引き起こした人の責任となります。

 

善意は取り扱いが難しい

 ハラスメント等の一部を除いて感情の分野では製造者は責任を負いませんが、不思議なことに善意だけは法に基づかないで責任を取り扱われることがあります。

 この善意とは一般的な意味の善意で、法律用語の善意ではありません。

※法律上の「善意」:ある事実を知らないこと、又は信じること

 

 不慮の事態が生じた際に「こちらは善意でやったのだから」と言い訳に用いられたり、善意の押し売りによって「お前のためを思ってやったのだから」と対価を要求したりと、善意は免罪符もしくは債権のような扱いをされがちです。

 もちろん善意そのものはとても尊いものですし、その総量は少なく世界中で在庫不足であることは疑いようがありません。善意は多いに越したことはないでしょう。

 しかし、善意があろうがなかろうが、それに対して他者が何かを支払う責任は本来存在しません。善意を製造するのは個々人の心の中であり、その取扱いに対する責任は製造者たる自身のみとなります。

 

結言

 繰り返しになりますが、善意はとても尊いものです。それを製造できることには大きな価値がありますし、その製造能力は大切にされるべきものでしょう。

 ただ、製造した善意による結果の責を担うのは製造者である自身であることを重々留意する必要があると考えます。善意を元手に他者へ何らかの責任を求めるような行いは避けたほうがよいです。

 また個々人が管理できる善意には個人差と限度があり、持て余すほどの善意を製造することは戒めたほうがよいかもしれません。

 自身の善意に振り回されてしまう善人が世の中に居るのは、それはとても悲しいことです。

 

 

余談

 責任論はさておき、人の善意に感謝できる人間ではありたいものです。

 他者の善意に対して私たちは責任を負いませんが、しかし、だからこそ感謝をするという行いは義務から離れた立派なものだと思います。