忘れん坊の外部記憶域

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相手の意見を否定することは自説の補強にはならない

 いつも巡回させてもらっているブログの1つ、そこでは少しややこしい国際問題を取り上げていることからコメント欄が同意もしくは反論でとても賑わっています。

 ほとんどのコメント投稿者は議論の作法を心得ているため、互いの意見を積み上げてより優れた見解を模索する建設的な論争が行われています。時に少し喧嘩腰な方もいらっしゃいますが総じて言えば賑やかです。

 私はそういう喧々諤々な論争はあまり得意ではないので参加せずそっと見学しているのですが、ネット上で行われている議論の中では比較的穏健で真っ当なものだと感じます。

 ただ、先日ちょっと議論の作法が分かっていない方が乱入してしまい、他の方々から集中砲火を浴びていたのを見かけました。燻製ニシンの虚偽やストローマン論法といった詭弁を駆使する、ネットに限らず言論の場でよく見かけるタイプの方でした。

 その人のことを直接語るのではなく、今回はメタ的な視点で議論の作法について少し意見を述べていきたいと思います。

 

詭弁について

 議論において気を付けなければいけないのは詭弁です。詭弁とは根拠が不確実であることを隠したり、誤っていることを正しいと思わせるような論法を指します。相手に使われないよう気を付けることも必要ですが、何よりも自身が使ってしまわないよう詭弁について学んでおくことは有益です。

 詭弁には様々な方法がありますが、論点を曖昧にしたり変えてしまったりすること、論理的誤謬を無視して不適切な論証を行うこと、誤った論拠を用いて自身の言説を補強したり相手の言説を攻撃すること、他にも様々ありますがこの3種類が大枠として主なものでしょうか。

 前述した燻製ニシンの虚偽ストローマン論法はこのうち論点に関する詭弁の一種で、論点をすり替えたり論点を歪めることを指します。論点に関する詭弁はディベート慣れしていない一般の人でも使いやすい詭弁のため、警戒が必要です。

 

 有名な詭弁論法にはこういった個別の名称が付いていますので、調べてみるのも面白いかもしれません。名称のある詭弁論法はつまりそれだけ議論で頻出される手法ですので、知っておくと議論で翻弄されにくくなります。

 

意見の否定に終始しても本質的な意味がない

 言論の場でよく見かけるのが、対立する相手の意見の否定に終始することです。ネットでよく見かける「論破」という言葉に該当する行為を想像してください。

 先に述べた論点・論証・論拠のうち、相手の意見を否定するのに最も使い勝手がいい詭弁は論点に関するものです。自身の意見に都合の悪いところは無視し、相手の意見から攻撃できるところだけをチェリーピッキングして攻撃する論点のすり替えは簡単かつ効果的なため、至る所で見かける典型的な詭弁論法だと言えます。

 

 それ自体も詭弁ですので議論の作法として問題ではありますが、たとえそれが成功したとしても論理的な誤謬が否応なしに残ります。

 ある意見を持つ人が他者の意見の否定に成功した場合でも、それは自説の論拠にはなりません

 本当に自説の論理を通したいのであれば対立意見を攻撃することは意味を成しません。「論破したから俺の勝ち、だから俺が言っていることが正しい」というのは明らかに論理的整合性が取れていません。人の意見のどこが間違っていようがそれはその意見自体を弱体化させる瑕疵に過ぎず、自説の補強には一切繋がらないのです。これは論証に関する一種の詭弁です。

 「論破」が真っ当な言論の場で嫌われているのはこれが理由で、それは詭弁に過ぎず、本質的に議論の場に存在する意味がないものです。

 

 こんなことは簡単な例を考えれば本来誰にだって分かることです。

A「唐揚げは美味しいよね」

B「僕は団子のほうが美味しいと思うな」

A「このアンケート結果を見ろよ、団子はショートケーキに対してこれだけ人気が低いんだ、団子はそこまで美味しいとは思われていないんだ、お前の意見は間違っている、だから唐揚げは美味しいんだ」

 これでは明らかに論理が繋がっていません。論点は曖昧ですし、論証は間違えていますし、論拠は不適切です。Aが唐揚げを美味しいという意見を通したいのであれば、やるべきことはBの否定ではなく唐揚げが美味しいという論拠を用意することでしょう。

 論破の多くはこのような誤ったロジックに基づく意味のない行為に他なりません。

 

 団子が好きな方がいましたらごめんなさい。これはデータに基づかない思い付きの例です。

 

結言

 適切な議論の作法とは、対立意見に倒されないよう自説の論拠や論証を強固にすることであり、決して対立意見を叩き潰すことではありません。対立意見を叩き合って圧し折り合うだけのものは議論ではなく、ただの口喧嘩です。

 それはとても建設的ではないと、そう考えます。

 

 

余談

 自説の展開ではなく、他説の論理的誤謬を探して攻撃する一種のロジックゲームとして論破を楽しむ人もいることでしょう。まあ、趣味は人それぞれですが、あまり人様に迷惑が掛からない範囲で行うことが望ましいとは思います。