忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

「言葉の重さ」に関する考察と私見

 ブログをやっている人にはあるあるだと勝手に思っているのですが、

「あの人、最近あんまりブログを更新しなくなっちゃったな・・・」

と寂寥感を覚えていたところで、久しぶりにブログの更新があると嬉しくなりますよね。ね?(同調圧力)

 

 そんなわけで唐突に、喜びから人様のブログの言の葉を拾って持論を展開していくムーブをかましていきたいと思います。

 これは滅多にやらない珍しいムーブです。なぜやらないかと言えば、私がやるとクドい話をしてしまいウザ絡みになりがちだからです。

 いまここさんはうちの駄ブログがまだ形の曖昧な星間分子雲コアだった頃に来訪いただいた方です。具体的には読者登録数1桁台の時代に読者登録いただきまして、インスピレーション面でもモチベーション面でも大変お世話になりました。

 今回はいまここさんの記事から言葉を引用させていただき、「言葉の重さ」について考察していきたいと思います。

 上記リンクの記事には私も同意見で、「言葉には重さがある」と思っています。

 ただそれがどんな重さかをパッと上手く説明できないため、ここ数日考えていた結果の言語化を試みます。

 

「重」の解釈

 重さと言えば質量や重量を表す際に用いる言葉ですが、他にも「愛が重い」「気持ちが重い」というように「思い」を「重い」として表現することも多々あります。

 これは言葉が似ているだけの言葉遊びなのか、それとも異なるレイヤーでは繋がっているのか、考えてみましょう。

 

 「重」という言葉はそれこそ重層的な意味合いを持っています。

 定量的な目方(重量)を示す重さ以外にも、

 程度の大小を意味する重大重要

 大切さや敬いの程度を意味する重視尊重

 積み上げや積み増しを意味する重厚重複

 他にも重病重度のように甚だしさの度合いを意味することもあります。

 また、重さと言えばどうしても「重力方向の大きさ」をイメージしやすいものですが、「重いパンチ」のように重さは決して鉛直下方向に限定されるものではありません。

 これらを括ると、「重」という言葉は形而下の定量的な質量に限定されず形而上での定性的な概念においても使われる「動かしがたさ」を示す際に用いられる言葉だと言えます。

 実際、私たちは日常においても「言葉の重み」「伝統の重み」「命の重み」というように形而上での重さを取り扱っていることから、言葉にせずとも感覚的には理解しているのでしょう。

 

不要な考察

 「重」という言葉は日本語でも多く使われる漢字の一つです。文化庁が令和1年に行った漢字出現頻度数調査では158位と、かなり上位にいることが分かります。圧倒的な高頻度というわけではありませんが、常用漢字だけでも2000字以上ありますので上位に位置すると言えるでしょう。

 (トップ5は「人」「一」「日」「大」「年」、調査対象がWebサイトや新聞なので納得の順位です)

 

 私見ですが、日本語で「重」が多用される背景には、惟神道を代表とする日本的なアニミズム、自然崇拝が根底にあるのだと感じます。

 信仰の対象となる神にはその根源となる権威が不可欠です。一神教においては神の「絶対性」が神威を担保するものですが、自然崇拝ではそれが「動かしがたさ」にあると考えています。

 古代より自然崇拝の対象となる神が宿るものは、太陽や大地、山や海、川や森、大木や巨石、そういった人の力では動かしがたい存在です。その他の細々としたものは全て動かしがたい神から頂いた預り物であり、だからこそ八百万が宿ります。

 そういった動かしがたいものを尊ぶという意識が自然崇拝を基底とする日本文化にあり、「重」という言葉に重みを与えているのではないかと、そう考えます。

 

 せっかくなので言語や文化の視点を変えて考えてみましょう。

 重さは英語でweight、重いことを示す形容詞はheavyを使います。weightやheavyは基本的に可算の数えられるものに使われますが、「責任の重さ」「重い税負担」「重い風邪」「ヘヴィメタル」など精神的な不可算のものにも使われます。

 しかしいずれにしても程度の大小のみを示す言葉であり、日本語の「重」に含まれる尊びや恐れといったニュアンスは含みません。それらはrespectやpowerといった別の言葉で表現されます。「言葉の重さ」であればseriousやimportantでしょうか。

 日本語の「重」はより多くの動かしがたさを含意した言葉であり、文化的に特有の性質かと考えます。

 

 これは学術的な正しさは特にない私見であり、学者先生には笑われそうです。まあ、個人的な思索です。

 

結言

 「重」の意味合いを考えると、言葉や思いには間違いなく形而上の「重さ」が存在します。それは尊ぶべき大切な、甚だしく厳かで、深く高くかさなるような、可算ではない重さです。

 つまり、言葉や思いにはただの物理的な重さよりもよほど重みがあると考えます。

 私たちをそれを重々承知して、厳重かつ慎重に重く取り扱うべきなのかもしれません。