今日は訳の分からないことを話す日。あ、それは毎日でした。
自由と我儘との界は、他人の妨げを為すと為さざるの間にあり
個人のブログやWebサイトにおける個人の言論は基本的に個人の自由です。
人は他者の権利を故無く侵害する権利を持ちませんが、法的・倫理的・社会的に許容される言論の範囲内において、ブログやWebサイトでは管理者である当人が自由自在に言説を弄することが許されます。
個人のブログやWebサイトはパブリックに公開されたプライベートスペースというある種矛盾した空間であり、そこでは完全なる個人的な自由と完全なる社会的な不自由を謳歌することができるのです。
自由の檻に囚われるしかない以上、出来る限り広い檻に住みたいものですね。
ブログにもドアホンが欲しい
人様のブログは私にとって他人の御家です。SNSは広場での談話や討論の感覚ですが、ブログやWebサイトはなんとなく家のイメージです。
ブログやWebサイトで公開されているアレコレは私にとって家の外観や整えられた庭です。誰かが弄繰り回して変化させることは許されず、しかし誰もがちょっと足を止めて覗き込んでも問題ない、そういった類のものだと思っています。家によっては玄関口まで開放して美術館のように展示品を並べていることもあり、凄いです。小学生並みの感想です。
家の外観や庭、展示されているものに対してコメントをする際のイメージは人それぞれ異なると思います。
手紙をしたためてそっと郵便受けに投函するような感覚の人もいれば、家主に直接話しかけるイメージの人もいるでしょうし、家の外の道路から大声で叫びかけるような姿勢の人もいるでしょう。
私はブログやWebサイトを感覚的に「家」だと思っているため、そこにコメントをすることは家に上がり込んで家主に対してアクションをする行為と捉えています。そのため、「ここ」は私のお家なので私が好き勝手に棚を配置したり日当たりがいいところに椅子を置いたり適当に長座布団を敷いて寝転んだりしますが、「そこ」は私の御家ではないのですからそれ相応の立ち振る舞いを考えます。
必要以上に堅苦しいような気もしますがこの辺りは個人の趣味の問題なので、人それぞれどう捉えてもいいでしょう、恐らく。
よそ様の家に上がり込む以上、まずは家主が喜びそうな手土産の一つでも持って身支度をしっかり整えた後、玄関先で呼び鈴なりドアホンなりを使って応答を待ちたいところですが、残念ながらドアホンは存在しないためそそくさと静かに玄関を通ります。とりあえず居間であろう場所の座布団に大人しく座り家主の登場を待ちたいものの、待てども暮らせども当然家主は来客に気付いていないので、大人しく机の上に持ってきた手土産を残し、また静かに玄関から去っていきます。
つまるところ、私にとってよそ様のブログやWebサイトにコメントをするという行為は、借りてきたが如く大人しい猫のような存在がそっと家に忍び込み、居間の机の上にそっと置き土産をして帰っていくという、なんとも言い難い感情を想起する行為に他ならないと考えます。というか、ただの不審者です。
せめてドアホンがあればいいんですけどね。いえ、まあ、コメントの承認機能がまさにそれなのでしょうけども、こう、訪問者側からも能動的にアクションが取れる仕組みがあるといいなと。
「置き土産置いていっていいニャン?」
「何を置いていくんだワン?」
「こんな感じのものですニャン」
「それならどうぞ、ありがとワン」
くらいのやり取りをしてからコメントをしたい。したいけど、でも面倒そうだからしたくない。複雑な気持ち。
贈り物はちゃんと包装したい気持ち
このような不思議信仰を持っているため、よそ様のところにコメントをするにはそこそこのエネルギーとちゃんとした手土産を用意する時間が必要で、最近ちょっとそれが不足しているせいであまりよその御家にコメントを残せていないです。
同意や共感、反論異論、追記や補足、様々な意見の手土産はあるのですが、それをラッピングしている余裕が無いので置いていかずに持ち帰っている、そんな気持ち。
持ち帰ってきた土産物は後々自分で記事にしたりするので無駄にはなっていないのですが、ちゃんと贈り物として用意したい気持ちがあるのでモヤモヤする、そんな気持ち。
とはいえ感想や意見はちゃんと言葉にして伝えないと伝わらないのだから、多少ラッピングされていなくても伝えるべきじゃないかと心の声がざわついている、そんな気持ち。
結句反復のレトリックで思っている気持ちを強く主張したい、そんな気持ち。
結言
「もっと気楽な気持ちでコメントすればいいんじゃないかな?」
「そう思う」
余談
犬派猫派で言えば、私はタヌキ派です。