忘れん坊の外部記憶域

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楽観と悲観に関する考察:心と頭が一致する必然性は無い

 隙あらば楽観と悲観の差異を語る楽観主義者、それが私です。

 今回もまた楽観と悲観についての思索を述べていきます。

 

楽観と悲観に関する情報整理

 楽観と悲観を分かつものは何かと言えば、その感度差は科学的にセロトニントランスポーター遺伝子の型で説明が付き、それが思考や主義として定着する度合いは生育環境が大きな要因になるとされています。

 楽観と悲観を語る上での典型例として、コップに残った半分の水を例とすれば、「水がまだ半分もある」と感受するのが楽観、「水がもう半分しかない」と感受するのが悲観で、この感度差は前述したように遺伝的な要素が大きいものです。

 

 しかし、その感受した情報をどう受け止めて解釈するかはまた人それぞれです

「水がまだ半分もある、だから何も問題はないな」

「水がまだ半分もある、だけどこれは飲んだら無くなってしまう」

「水がもう半分しかない、だからもう水は全然飲めない」

「水がもう半分しかない、だけどなんとかなるように上手く配分しよう」

 この後半部分、すなわち楽観主義(オプティミズム)悲観主義(ペシミズム)を分かつのは生育環境が大きく影響します。

 

 ややこしいことですが、楽観と悲観は単純な二項対立の概念ではないと考えます。たとえ楽観的な物の見方をしていても楽観主義者とは限らず、同様に悲観主義者が必ずしも悲観的に物事を捉えるとは限りません。心で感じたことをそのまま受け止める必要は無く、メタ認知によって解釈を変えることも自由です。

 例えば私などは仏教的価値観が強いため、

「この世は一切皆苦であり、理不尽が常である」

と悲観的視座で物事を捉えます。

 ではそれによって悲観主義者かと言えばそうではなく、

「文句言ったって仕方がねえ、まあなんとかなるだろ」

と楽観的に解釈します。悲観を悲観のまま受け止める必然性は無いのですから、この世が楽園ではないと感じても、だから地獄だと解釈する必要もないと、そう考えます。

 

 つまるところ感受(心)と解釈(頭)は分割可能な二軸であり、悲観と楽観の分類は2×2のマトリクスです。その分類で言えば私は悲観的楽観主義者とでも呼ぶべき考え方を持っています。

 他にも例を考えるのであれば、楽観によって喜びを得た人が「でも、これを失うかもしれない、それは不幸だ」と考えるようであれば、その人は楽観的悲観主義者と言えるでしょう。悲観によって悲しみを覚えた人が「今日も悪い日だった、明日も悪い日だろう」と考えるのであれば、それは純粋な悲観的悲観主義者です。

 

なんとかなるだろう

 冒頭の引用記事でも述べたように度々となりますが、これらは優劣で語るべきものではありません。必ずしも楽観であればいいわけでもなく、常に悲観であればいいわけでもありません。楽観に溺れて冒進すればいずれは事故を引き起こしますし、悲観に染まって停滞すれば二進も三進も行かなくなります。どちらも時と場合と程度問題に過ぎません。

 むしろこの世は一切皆苦、すなわち思い通りにならないのが常である以上、「楽観的でなければならない」と思い込む妄執こそが自身を苦しめる根源になりかねないでしょう。

 

 とはいえ、生きやすさ、過ごしやすさの観点からすれば楽観主義のほうが気楽であるだろうという見解もあながち間違いではありません。悲観を捨て去るべきではありませんが、基本のマインドセットは楽観主義であったほうが気苦労は少なく済むでしょう。

 ここで意識すべきは前述した感受(心)と解釈(頭)の分割可能性です。心と頭を割り切って分離するという視点で見れば、生きやすさに関係するのは解釈である楽観主義であり、遺伝的な楽観と悲観の感受性の差異ではありません。

「水がまだ半分もある」

「水がもう半分しかない」

 これらはどう受け取ってもいいですし、むしろ遺伝的なものであって変えがたいものです。ここを変えようとするのは無理で無謀で苦痛の元です。

 そうではなく、

でも、まあ、なんとかなるだろう

というような、解釈の方法こそを変えるべきです。

 感受した情報を分析して解釈する。その技法は環境によって育まれてきたものであり、つまりは後天的に変更可能なものです。であれば悲観を楽観主義で受け止めることは訓練次第で誰にでも出来ます。

 心と頭は別々でいいのです。