忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

わからないものはわからない

私は一応科学者だから、超常現象を否定しない。わからないものはわからない。

  引用元:佐伯 緑「What is Tanuki?」

 このフレーズだけで筆者が真摯な科学者であることが分かります。

 

科学とは真理を追究する学問ではない

 科学の基本は観察測定実験です。対象を観察し、具体的に測定し、実験によって検証する。仮説を立てて検証を行うサイクルによって対照性と再現性から何らかの法則性を導き出すのが科学の基本的な方法論であり姿勢です。

 もちろん規模の大小によっては観測ができない事象や複雑性の高い事象があることから、統計論やモデル化など別の手法を用いることもありますが、基本的には実証的な手法が好まれます。

 

 初期の科学、すなわち宗教的世界観を覆すような様々な発見と探求がなされた17世紀頃の科学観では、科学的方法を用いて導き出された法則は少なくとも何らかの反証が見つかるまで信じるべき堅固な原理、少し強い表現で言えば真理とされていました。

 しかし現代の科学観はそこまで単純なものではありません。細かく話していくと科学哲学の深みにハマって長くなるので省きますが、現代の科学(science)はその語源であるラテン語の知識(scientia)に近い概念となっており、つまりは「体系化された知識の総称」です。現代の科学観にはウィトゲンシュタインの「語りえぬものについては沈黙しなければならない」を代表に実証主義的な考え方が根底の一つとして存在します。観察されていない、測定されていない、実験されていない事柄について科学は言及しません。科学は完全なる真理ではなく分かっている知識の総称であり、「わからないものはわからない」のです。

 もちろん科学哲学は一枚岩ではなく実証主義が絶対的な概念として存在するわけではありませんし、むしろ相当批判されてはいます。しかし科学の探求に伴い様々な不可知の事象が立証され、さらには確率や不規則性に支配される現象が発見されたことから、実証主義は一つの科学的態度として今なお強い影響力を持っています。

 

哲学は奥が深いから簡潔に語りにくい

 科学哲学の名が示す通りこの分野は無数の哲学者が様々な理論を展開し批判し合っている分野のため下手なことは言いにくいです。と、及び腰の前置きをしてから語ります。

 とかく極めて雑に分類すると、科学観には決定論的な「私たちがまだ分かっていない何らかの法則があるのだ」という考え方と、認識論的な「分からんことは分からん、分かる範囲だけを取り扱うべきだ」という考え方があります。本当に大雑把過ぎる分類ではありますが。

 ただ、少なくとも「今はまだここまでしか分かっていない、わからないことはわからない」という科学の限界への謙虚な姿勢は派閥を問わず共有されています。科学はいかなる事象も説明ができる確固たる知識体系である、なんて考える人は科学者にはまず居ません。

 

メディアとの相性の悪さ

 この「わからないことはわからない」は科学的に極めて真摯な姿勢ではあるのですが、正直なところメディアとの相性がとても悪いです。

 メディアは幅広い層に伝わるよう単刀直入で分かりやすい断定を好みます。そのため科学的に不確かな部分を分からないと誠実な姿勢で答える科学者よりも、科学的に不確かであろうとも断言する科学者風のコメンテーターを採用するのがメディアの戦略上正しいものとなります。

 まさに冒頭の超常現象が良い例で、科学的に超常現象は「分からない」という答えが正しいものです。なにせ観察されていませんし、測定されていませんし、実験されていないのですから。観測されていないものを「ある」とも「ない」とも断定して語るのは科学的ではありません。

 しかしメディアとしては「超常現象なんて存在しません!」と断定するいかにもな科学者像を演じる人や、科学的な方法論を無視して「超常現象は実在するのです!」と断言する科学者風のコメンテーターのほうが視聴率を取りやすい以上、そちらを採用するのが自然な流れとなります。

 

 よって私たち視聴者側が取れる対処としては、

  • 「わからないものはわからない」とちゃんと伝える真摯な科学者の話を優先する
  • 不確かなところはちゃんと不確かであることを述べる科学者の話を優先する
  • 専門外の分野に言及している科学者の話は相当に疑いながら聞く

というようなことを留意するのが良いでしょう。

 つまり重要なのは「誰が言っているか」よりも「何をどう言っているか」です。

 

結言

 メディアと科学の関係となると科学社会学の分野に入り込むためややこしいのですが、とにかく、残念ながら世の中には「聞く価値のある誠実な科学者の意見」と「聞く価値の無い不誠実な科学者の意見」があります。後者の話は聞くことを避けるほうが無難です。

 ただ、できれば「誰が言っているか」ではなく、個別の事案において「何をどう言っているか」で峻別するのが良いかと考えます。

 「あの学者は信用ならねえ」となってしまうと有益な情報を取りこぼす可能性がありますし、「あの学者は信用できる」としてもその学者が必ずしも正しいことを言っているとは限らないからです。人そのもので決めるのではなく個別の発言を吟味し、不確かさを包み隠さない科学に基づいた誠実な発言を信用するのが合理的かと考えます。