忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

科学の話で「信じる」「信じない」という言葉が出るのは変だと思うんだ

 軽めの語り口調でちょっと皮肉めいた話を。

 

 お仕事柄、気候変動問題には否応なしに関わらざるを得ないため、日々その辺りの情報収集をしています。国際会議の結果次第で売れる製品が変わる業界なので仕方がないですね。

 ただ正直なところ、この界隈ってギスギスしているため、見ていてあまり愉快じゃないです。どうにも偽医療系の界隈に近いところがあり、物凄く先鋭化した人が両側に居て罵り合っているような世界です。様々なレベルで肯定派と否定派が分かれて口角泡を飛ばさんばかりに言い争っているため、居心地が悪いことこの上ないです。

 とはいえ舌鋒鋭い言論が飛び交うのは別にこの界隈に限りませんし、科学において批判的思考による議論が生じるのは自然なことですので、論争それ自体が嫌なわけではありません。

 

 じゃあこの居心地の悪さはどこから来るのだろう、と常々思っていたのですが、先日どこぞで見かけた人たちの言葉がその疑問を解消してくれました。

「まだ気候変動懐疑論なんか信じてるのか?」

「気候変動を信じてるなんて馬鹿じゃないの?」

 

 ・・・これだ。

 

科学と宗教の差異

 モヤモヤしていた気持ちが晴れました。

 彼らはデータの取り方や解釈について議論しているのではなく、何を信じるかで揉めているのであり、それはつまり科学の話ではなく宗教論争をしているのだということです。

 私は彼らの論争を科学論争だと誤解していたから違和感を覚えていたのでしょう。どうりで理解できなかったわけですし、論争が終わらないわけです。だって何を信じるかなんて人それぞれであって、決着が付くわけがないのですから

 

 時々「科学とは宗教だ」というような言説を見かけることがあります。これはある側面では正しいですが、基本的に間違いだと思います。

 科学と宗教では方法が決定的に違います。

 宗教は「そうだと信じる」ことから始まるのに対して、科学は「そうかと疑う」ことから始めます。宗教は教義を公理とするのに対して科学は公理の置き換えを可能とします。宗教は無謬性を有しているのに対して科学は無謬を謳いません。

 つまり正しいか正しくないか分からないという状態が許容されるのが科学です。科学は白黒をつけるための道具ではありません。

 確かに、人が何か物事を理解するという行為には最終的に「そうだと信じるしかない」極致が存在することはデカルト的に事実であり、その面で言えば科学も宗教も他の全ても同様です。

「私はこうしてブログを書いている」

「そのブログという存在が虚構ではない証明は?」

「私がこうして見て、実在を確認している」

「見ていることが正しいという証明は?あなたという観測器が正しいという証明は?」

「それはもう、それが正しいと信じるしかない」

 方法的懐疑の理屈を誤用すれば「○○○は宗教だ」と無限に言えてしまうわけで、それは科学と宗教が近似していることの論拠足り得ないでしょう。「信じる」という行為のみをもって科学と宗教を同一のものとみなすのは乱暴な論理かと思います。

 

 つまるところ、科学とは現時点で分かっている体系的知識であり、科学にとって重要なのは方法論であり、「そうだと信じる」ことは科学の本質ではありません。

 よって「気候変動を信じる」「気候変動を信じない」というような言葉が出てくる時点ですでに科学的方法論から逸脱しており、それは科学の話ではないでしょう。

 

科学的な曖昧さの取り扱い

 とはいえ科学は正しいか正しくないか分からない状態を含む以上、古典力学のような固い学問以外にも気候学や医学のように曖昧さが大きい科学もあります。

 科学的な曖昧さをどう表現するかは少し難しいのですが、個人的にはIPCC(気候変動に関する政府間パネル)の指標が分かりやすいので紹介しましょう。

 

 IPCCは気候変動に関する世界中の論文を収集し、整理して、統一的な見解を報告するための国際的な学術機関です。

 気候変動に関するデータや論文は無数にあり、地球の平均気温一つ取っても測定方法の違いなどで様々なデータセットが存在します。今現在のデータはまだしも過去や未来を予測したデータにはばらつきが生じます。それらデータを解析した科学者がどのような見解を示すかも異なります。

 そういった科学的な曖昧さを表現するため、IPCCは下図のような判定基準を設けています。

引用元:環境省『IPCC第5次評価報告書の概要 -第1作業部会(自然科学的根拠)-

 

 表自体は少し見にくいのですが、証拠の強さと見解の一致度に応じて色の濃淡が変わり、その濃淡によって確信度の尺度を決めています。

 『確信度が非常に高い』という評価は科学者の見解が極めて一致しており、証拠も確実に存在するものです。

 逆に科学者の見解が一致しておらず証拠も限定的で不十分な場合は『確信度が非常に低い』と判定されます。

 『確信度が中程度』と判定されるのは、科学者の見解が一致していないか、証拠が不十分か、見解や証拠が拮抗している場合です。つまり「まだ分からない」という状態を意味します。

 

 気候変動による海面上昇を例としましょう。

 海面水位が今後数千年に渡って上昇していくことは『確信度が高い』とされています。よって「海面上昇はしていない」という類の意見は非科学的です。

 今後二千年の間に何メートルも海面上昇することは『確信度が低い』とされています。よって「海面上昇によって都市や島がどんどん沈んでいく」という類の意見はやはり非科学的です。そこまでのデータは揃っておらず、科学的に正しい見解は「可能性はゼロではないが、分からない」です。

 

 この確信度の概念を考慮していない言説は基本的に非科学的で、あまり科学的価値はありません。『確信度が高い』事柄を否定するような懐疑論は不適切ですし、同様に『確信度が低い』事柄を事実のように述べる肯定論も不適切です。

 そして『確信度が中程度』の事柄を「そうなると信じる」「そうなると信じない」というような言説は特に不適切です。それは今の科学的知見ではまだ分からないことであり、信じたり信じなかったりするようなものではありません。

 

結言

 気候変動や医学など、曖昧さが大きい科学分野の情報を見る際は次のことに気を付けるのが良いかと思います。

  • 確信度に留意し、それを無視するような言説は肯定派・否定派を問わず避ける
  • 「まだ分からない」という科学的事実が存在することに留意し、無理に白黒を付けない
  • 「信じる」「信じない」という言葉を見た時点で非科学的な意見だと考える

 もちろん政治的な意志決定のためには何らかの白黒をつける必要があるのですが、ただ、少なくともそれは政治として語るものであって、科学の皮を被るべきではないです。

 

余談

 気候変動問題で時々話題になるのがホッキョクグマの頭数です。

 これは不思議なことに「増えている」という見解と「減っている」という相反した見解が存在します。本当に不思議です。

 いやどっちが正しいのさ、と思うので、ホッキョクグマに関する国際団体の情報を見てみましょう。

 緑は増えている地域、黄色は安定している地域、赤は減っている地域、それ以外はデータが不足している地域です。ほとんどの地域でデータ不足なことが画像から分かると思います。

 つまり、科学的に言えばホッキョクグマの頭数は「増えている地域もあれば減っている地域もある、でもまだデータ不足だから分からない」が正解だと思うのですが、いかがでしょう。