賢い人はなぜ賢いのか。
まあ、何もつらつらと述べるようなことでもなく、
「偽りても賢を学ばんを賢といふべし」
と徒然草の一節でも持ってくれば終わる話ではありますが、賢さについて考えるところを少しだけ語っていきます。
知識と知性、結果と姿勢
頭の回転の早さ、当意即妙な受け答え、他にはない鋭い視点、明朗快活さ、要領の良さ、などなど、他者から見て"賢い"とされる言動は様々ありますが、その中でも分かりやすいのはやはり物事を知っていることでしょう。何を聞かれても答えられるほどに博識であり、物事の道理を熟知した碩学こそが賢者と称えられることが多いと思います。
ただ、では物事を深くたくさん知っていれば本当に賢者かと言われれば、実際はそうでも無い場合があるものです。博学であっても時には素っ頓狂なズレたことを言う方もいますし、偉大な専門家でも専門外についてはさっぱりな方もいます。
どれだけ知識があったとしても、それを活用して適切な運用ができる知性が無ければ無用の長物になります。もちろん知識はあるに越したことはありませんが、その所有だけを求めるのでは意味がありません。つまり知識と知性は別物だということです。
何よりも知識は陳腐化していくものであり、絶えず循環させて更新していくことが求められる性質を持っています。よって知識をたくさん持っていることよりも知識を常時獲得できる能力のほうが重視されるわけです。
そういった特色を踏まえると、賢者かどうかを判別するには結果ではなく姿勢を見るべきだと考えています。『どれだけ物事を知っているか』という結果ではなく『どれだけ物事を知ろうとしているか』の姿勢を見るべきです。
どれだけ物事を知っていようと、それに満足して学ぶ姿勢を忘れてしまった人はもはや賢者ではありません。
反対に、今どれだけ物事を知らなくても、熱心に学ぶ姿勢を持っている人は立派な賢者です。
冒頭の言に戻り、偽りても賢を学ばんを賢といふべし、はこのようなことを述べているのだと考えます。たとえどのような動機であっても、たとえ嘘であっても、学ばんと欲するものこそが賢者であり、行動の姿勢こそが判定基準です。
賢い人は賢いから賢い人なのではなく、賢くあろうとするから賢いのですね。
余談
なんとなく徒然草の第八十五段を全文載せておきます。
人の心すなほならねば、いつはりなきにしもあらず。
されども、おのづから正直の人、などかなからん。
おのれすなほならねど、人の賢を見てうらやむは尋常なり。
至りて愚かなる人は、たまたま賢なる人を見てこれを憎む。
「大きなる利を得んがために、少しきの利を受けず、いつはり飾りて名を立てんとす」とそしる。
おのれが心に違へるによりて、この嘲りをなすにて知りぬ、この人は下愚の性移るべからず、偽りて小利をも辞すべからず、かりにも賢を学ぶべからず。
狂人の真似とて大路を走らば、すなはち狂人なり。
悪人の真似とて人を殺さば、悪人なり。
驥を学ぶは驥のたぐひ、舜を学ぶは舜の徒なり。
偽りても賢を学ばんを、賢といふべし。
「狂人の真似とて大路を走らば、すなはち狂人なり」の一節が好きです。私もよく意図的に狂人の素振りを示しますので。
つまり私は自覚的で明白な狂人です。実に迷惑な存在です。
また世の中には「これは正義だ」と言いながら他人を攻撃する悪行を為す人もいらっしゃいますが、「悪人の真似とて人を殺さば、悪人なり」とあるように、それは正義ではなく悪だということです。
どれだけ自覚的かどうか、どういった信念があるかを問わず、その行動によって人の評価は定まるものなのですから。