忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

善行も三杯目にはそっと出し

善をなす場合には、いつも詫びながらしなければいけない。

善ほど他人を傷つけるものはないのだから。

太宰治『美男子と煙草』

For in the fatness of these pursy times

Virtue itself of vice must pardon beg,

Yea, curb and woo for leave to do him good.

この堕落しきった時代では

美徳が悪徳に許しを請い、

悪徳に善行をしてくれと伏して嘆願しなければならない。

シェイクスピア『ハムレット』

 

大切なものだからこそ、慎重に扱う必要がある

 善意、善行、篤行、親切、慈善。善心を持って他者のために為される行いは大変に立派であり、それを否定する理由は無いかと思われます。

 たとえこの世にどれだけ悪が存在しようともその反対側には優れた徳を示す善人が存在することもまた事実であり、そういった優しい人々の健気な献身は世界を回す動力の一つです。

 諸手を挙げて賞賛すべき行い、誰もがその価値を認める尊ぶべき発露、それが善なる行いです。

 

 しかし、善は誰もが批難し得ない立派なものであるからこそ、それが暴走したときに誰も咎め掣肘することはできなくなります。

 善そのものは拒絶し難い完全なものであり、そしてそれを扱う私たち人間は完全なものではない以上、私たちが大切なものを慎重に取り扱うことと同様に、善も大切だからこそ重々しく取り扱われることが望ましいと考えます。

 それを熟知する必要があるからこそ、冒頭で例示したようにその取り扱いを戒める言葉が多数の賢人と無数の群像、そして歴史の研摩によって残されてきたのではないでしょうか。

 

善の絶対性と相対性

 そもそも善とは何か。

 それは社会的な規範に照らし合わせて正しいとされる行いです。社会の構成員に何かを施し、社会に危害を加える悪を追放し、社会の幸福が増す行いをする、そういった類の所為が善とされます。

 つまり、善とは極めて絶対的であるのと同時に限りなく相対的でもあります。形而上的な善き所為は絶対的に明確であり、そして具体的な善き所為は他者や社会によって規定される規範に依存する相対的なものだからです。

「小さな親切大きなお世話」「要らぬ世話」「ありがた迷惑」

 これらのことわざが示す通り、個人の判定する絶対的な善がその個人以外にとって相対的な善になり得るかは、他者や社会次第で定まります。

 

 善は誰が規定しても絶対的で拒絶し難いものであり、しかしそれが善と見なされるかは相対的に定まること、そういった善の相対性を考慮していない善、他者や社会との関係性を考慮していない善を独善と言います。

 独善は実に度し難いものです。善の絶対的な輝きは善の相対性を容易に攪乱してしまうのであり、だからこそ人は容易に独善へと陥ります。

 度々述べているように善は誰もが批難し得ない立派で絶対的なものである以上、その善を否定すること自体は誰にも出来ません。しかし拒絶し難い善を無理やりに押し付けること、それは社会の規範に照らし合わせても正しくなく幸福を増やすことには資さないことから、そのような所為は善ではありません。

 

結言

 何も実際に膝を付き詫びて許しを請いながら善を行う必要はありません。

 ただ、善行を為す際は善行がとても大切で価値があるからこそ、慎重かつ謙虚な気持ちで取り扱う必要があることを留意したほうが良いと考えます。善が持つ眩いばかりの輝きの陰には独善の落とし穴がそこかしこに隠れているのですから。