忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

閑話:気持ちが重いから重いことを考えるのか、重いことを考えるから気持ちが重くなるのか

 The chicken or the egg [鶏が先か、卵が先か]

 チキンと卵、どちらを先に食べるべきか。それが問題だ。

 ・・・そういうことではない?

 

閑話

 油断すると堅苦しくて重いテーマばかり書いてしまうので、意識的に緩い話をします。下書きしている記事もなんだか重いので、息抜きがてら。

 

 さて、重い気持ちになっているから重い話をするのか、重い話をするから重い気持ちになるのか、これはどちらが先なのでしょうね?

 なんともかんとも、これはまさしく鶏と卵の問題です。おそらく鶏と卵の問題です。たぶん鶏と卵の問題です。もしかすると鶏と卵の問題です。鶏と卵の問題だと言い張ります。

 

閑話

 重い気持ちであれば軽い話はまあ出てこないでしょう。

 とはいえ重い話を聞いて重い気持ちになるのもまた事実。

 感情が先か、事象が先か。このヘヴィなスパイラルには何が切っ掛けで陥るか、なんとも闇の中です。

 しかし逆に考えれば、軽い話をすれば軽い気持ちになるものだとも言えます。重い話を聞いて重い気持ちになるのであれば、その逆もまた真なりです。

 どちらが先であろうと気にせず、軽くなりたいのであれば軽いテーマ、重くなりたいのであれば重いテーマを取り扱う、事象を受動的に受け入れるのではなく望む感情へ向かうための能動的な選択をする、そのほうがきっと前向きでしょう。

 

閑話

 ただしこれは人によって好みが分かれるところでもあります。気持ちが重くなっている時、軽いことをして気を晴らす人もいれば、一度深くまで沈み込んでゆっくり浮上するのを好む人もいます。

 とはいえ、なんにせよいつまでも沈んで水面に浮かび上がらねば窒息してしまうもの、バタバタと泳いで呼吸をするも良し、一度深く沈んだ後に水底を蹴り上げ急浮上するも良し、いずれにしても水中に留まらず、水面に顔を出して呼吸さえできれば問題無しです。

 いつまでも水中に居ては生き苦しいですからね。

 

閑話

 そんなわけで、私は軽い話をあえて時々混ぜ込むことによって重さの緩和を企図しているのです。これは前向きで能動的な自己暗示的精神操作感情管理技法の一種だとすら言えるでしょう。漢字の勢いで誤魔化していますけど自分でも何を言っているかは分かっていません。

 まあ、後付けです。軽い話も重い話も好きなだけです。別に気持ちが重くなっているわけでもないです。様々なことを話し、様々なことを学び、そして様々な話を聞くのがただただ好きなだけです。まさに好奇心山の如し、そして静かなること雑踏の如し。

 つまりは、ただのうるさい人間です。

 

 「男は三年に一度喋ればよい」と母には教わりましたが、どうにも守れていません。

 教えが厳しすぎる。「男は三年に片頬」よりもよっぽど厳しい。

 三年に一度しか喋らない男が実際に居たら、少し怖い。

 

閑話

 今回は閑話しかしてない。

 ベースラインのテーマも無いので、休題もできない。

 でも、今日は緩和のための閑話の日なので気にしません。

 

 

余談

 余談ってつまり閑話みたいなものですよね。

 

じゃあ閑話

 チキンが唐揚げだったら、私はそちらを先に食べます。ゆで卵も好きですが唐揚げのほうが好きです。

 近所の中華料理屋の唐揚げ定食の唐揚げが大きくて美味しくて好きだったのにコロナ禍によって閉店してしまったため、悲しみ。