異論は攻撃してもいい、といった一部の風潮がどうにも好みではない。
SNSや雑誌・記事などで社会問題を取り扱う議論の場を見ていると、常々そう思います。
わからないものはわからない
以前、自然科学の領域における考え方の紹介として、「わからないものはわからない」として一度脇に置くことの意味を説明したことがあります。
自然科学の基本は観察・測定・実験であり、そういった行為がされていない事象に対しては断定的な言説を避ける必要があります。「わからないものはわからない」とすることは科学的に極めて真摯な姿勢です。
とはいえ、これは自然科学に限らない話だと思っています。
違う意見があるのは当然
どのような領域・ジャンル・分野においても異なる意見・異なる考え方・異なる価値基準は絶対に存在します。
これを統一して一つにすることは不可能です。誰もが同じものを食べ、誰もが同じ音楽を聴き、誰もが同じ言葉を使い、誰もが同じ信仰を持つ、それはむしろディストピア的な世界でしかありません。
「ハンバーガーが最高に好きだ。これ以外を食べるなんてありえない。だからハンバーガー以外を食べる人を攻撃しよう」
「ジャズが最高の音楽だ。ジャズ以外を聞くなんて理解できない。ジャズ以外の音楽を聞けないように他の音楽を排除しよう」
これはどう考えても極端な行動でしょう?
一部の例外を除き、たとえ個人がどれだけ素晴らしいと思っている思想信条信念であっても他者にそれを押し付けるのは社会的に正しいとはされません。
もちろんその反対、誰もが違うことをすべきだと言いたいわけでもないです。それは人類社会の紐帯の存続に懸念が生じる結果となりかねません。誰もが違うのであれば、一緒の集団に居る意味すらなくなってしまうのですから。
よって私たちはその中道、同化と分離の程よい温度感を探りながら、同じ意見と違う意見の双方を共存させていく必要があると考えます。
つまりは俗な意味での多様性です。
多様性とは「分かり合って同化する」だけではなく、「分かり合えないがさて置く」こと、その二律背反を同時に成り立たせなければならないものだと考えています。
「わからないものはわからない」としても良い、むしろそれは多様性において推奨される行いです。
たとえハンバーガーが嫌いでもハンバーガーが好きな人の存在は認める、同意や共感が不在だとしても理解はする、すなわち分からないままにさて置くことで初めて異なる見解が同時に存在できるのであり、何も異なる意見を無視したり攻撃したりする必要はありません。
互いにプライベートとパブリックの境界線を保ち、相手のプライベートな考えには踏み込まず、しかしパブリックでは連帯を保つ。その中道とバランス、温度感を大事に管理することこそが温和な多様性に繋がると私は信じています。
補記
上記で書いた一部の例外とは政治です。ここで言う政治とは国政に限らず社会問題の議論や集団内での意思決定など、利害調整が関わる幅広い意味を指します。
政治は他者と利害をすり合わせることが主な行動です。そして利害は人の情を強く刺激するため、政治界隈において攻撃的な言説が飛び交うことは構造的に多少やむを得ないところがあります。
とはいえ政治であるから許される必要は無いと個人的には思っています。
なぜ政治の領域であれば「ハンバーガー以外を食べる人を攻撃する」ような行為が許されるのか。それは実のところ「皆がそうした仕草をしているから」という慣習に過ぎないのではないでしょうか。
別に「ハンバーガーが好きなこと」は他を攻撃しなくても主張することができます。
別に「ハンバーガーを食べる」ことは人の動向関係なく自身で選択することができます。
別に「ハンバーガー以外が人々に選択された」としてそれを嫌だと思うのは自身のプライベートな感情です。
政治の話題は一見すると「パブリックな利害」を取り扱っているように見えて、実際は"世のため人のため社会のため"と装飾された個々人の「プライベートな利害」を叩きつけ合って攻撃し合っている、そんな惨状に思えます。
他の分野ではこの切り分けがちゃんとできているのだから、政治の領域であっても同様にアサーティブコミュニケーションができると思うのです。