忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

与えられたものをどう受け取りどう活かすかは個人次第

 どう受け取り、どう活かすか。

 

昭和の男

 祖父は昭和の男であり、私が実家にいた頃は毎日のように拳骨をもらっていました。

 もちろん私が悪いことや悪戯をした時は拳骨も当然かと思いますが、苦手なものが食べられなければ即座に拳骨ですし、それどころか食事が遅いという理由で毎度拳骨をもらっていましたので、とかく躾と言えば体罰が当然であった世代の教育方法だったのだと思います。

 

 祖父は昭和の男であり、男は甘やかさない人でした。

 姉や妹には何か物を買ってあげたり、雨が降れば学校まで送り迎えをしたりしていましたが、私はお年玉以外は拳骨しか貰った記憶がありませんし、雨が降ったら祖父の車に乗る年子の姉を横目にカッパを着て自転車に乗るのが常でした。

 

 祖父は祖父なりにそれぞれの孫を甘やかしていたのだとは思いますが、まあ、両親や親戚からは祖父が私の躾に厳しかったとは言われます。

 

 このようなやり方を良いと思うか悪いと思うか、それは人それぞれの価値基準に依るものと思います。精神論や体罰、ジェンダーや躾の仕方はそれこそ状況と環境と人によって別途に是々非々で判定されるものでもあり、一概に一色で判断できるものでもありません。

 

影響を与える側、受け取る側

 この『物事の是非は人それぞれの価値基準に依るものである』こと、これが重要な観点だと考えています。

 それはつまり、どのような意図や意思によって行動したかに関わらず、物事は受け取った相手によって判定されるものだと言えるからです。

 どれだけ善意の気持ちであっても相手が拒絶するのであればそれは独善であり、どれだけ意図が無くとも相手が望まないのであればそれは悪行へと変貌します。これはハラスメントの問題とまったく同一の構造です。

 相手に影響を与える側の配慮が不要と言いたいわけではありませんが、相手がどう受け取るかを完全にコントロールすることは不可能です。発信者は出来る限りの配慮をしつつ、しかし受け取り手に判断を委ねなければならないものであり、どう受け取るかを他者に強要するような仕草はすべきではないと考えます。

 

つまりは受け取り方次第

 私の祖父の教育方法には議論が紛糾し得るような点があります。

 しかしそういった社会的な方向性に関するマクロな議論と、私個人のミクロな受け取り方はまったくもって分離されたものです。

 私は精神論を好みませんし、ジェンダー平等を望みますし、体罰は基本的に反対です。そしてそれら全てに反する昭和の男、祖父からの日々の教育を受けた結果を私にとって実に良いものであったと強く感じています。

 これは二重規範(ダブルスタンダード)の姿勢ではなく、ミクロとマクロの差異に過ぎません。たとえ私が体罰を好まず社会全体から体罰の排除を望むとしても、私は私が受けた躾の範囲を否定するつもりはありません。それは私にとって役立ったと私が判定しているからです。

 おかげ様で多少の横暴には毅然と立ち向かうことができるようになりましたし、食べ物の好き嫌いは無くなりましたし、世の理不尽を受け入れつつも拒絶する、清濁併せ呑むことを是とした頑丈かつ柔軟な性格に育つことができました。

 

 たとえば協力や博愛、慈善や喜捨、そういった社会的にどれほど素晴らしく望ましい行いだとしても、それを好まない人はいます。それを「社会的に正しい行いをしないなんて悪い奴だ」と同調圧力を行使して個人を否定するのは望ましくないでしょう。社会全体が指向する善と個人の善は必ずしも一致するものではなく、その反対も同様です。

 社会的な善悪と良否、個人の善悪と良否は異なるものであり、個人のそれは完全に受け取り手の自由であるものです。

 もちろん『どう受け取ったか』を他者に伝えるのであれば、それを相手がどう受け取るかは相手の裁量次第です。「君はそう思うのだろうが、僕はこう思う」自由は存在しますし、それは尊重されるべきものです。

 しかし、たとえそうだとしても「君はそう思う」部分はやはり個人の自由でしょう。

 

 他者からは厳しい祖父だったと言われることもありますし、社会的な正しさがあったかと言えば疑問もあります。ですが、私にとって祖父が良いお爺ちゃんであったと思う気持ちは、やはり私の自由です。

 

結言

 人は言行一致が望ましいものです。よって私は精神論を押し付けませんし、ジェンダー差別は否定しますし、体罰は行いません。

 しかしそれはそれとして、私が祖父から受けた教育を否定しないのも私が持つ大切な自由なのです。与えられたものをどう受け取りどう活かすかは私次第なのですから。