忘れん坊の外部記憶域

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社会運動と当事者性:第三者が参画することへの是非

 社会問題を議論されている場で、時々当事者性に関する言及を見かけます。

 当事者性に関する言及は二種類あり、発信側による「当事者ですがこれについては~」や「当事者ではないので推測ですが~」といった形、もしくは受信側による「当事者でないなら語るべきではない」といった形です。

 この当事者性について少し考察をしてみます。

 

当事者性の匙加減

 何を語るにおいても当事者性の存在は説得力や論拠の緻密さに関わります。当たり前のことではありますが、第三者が語るよりも当事者が語るほうが情報量が多く、またリアルな内容であることは疑いようがないでしょう。

 もちろん必ずしも当事者が正しい情報を発信できるとは限らず、ある程度の認知バイアスが生じるのはやむを得ないことではあります。ただそれは部外者の発信でも同様であり、当事者の言説を優先的に重んじるのは妥当です。

 

 とはいえ当事者の言説を優先することが高じて、当事者の発信のみを採用するとまで極端に走るとリスクがあると考えます。当事者性の非存在を承認できなくなってしまうと、その物事について語ることが許されるのは当事者のみとなってしまうでしょう。

 それこそ「政治家でもないのに政治を語るな、黙っていろ」となるような世の中では窮屈で仕方がありませんし、民主主義的でもありません。かといって「医者は医療の当事者だが、当事者だからといって言うことを聞く必要はない」となるのも極端な話です。

 

 よって、当事者性は必須ではないが、あったほうが良い、言説を比較するのであれば当事者の言を優先する、程度の匙加減が適切だと考えます。

 

社会運動と当事者性

 特に社会運動においては当事者性の非存在に対して適度な黙認が不可欠だと考えます。

 問題の内容にもよりますが、多くの社会問題は「今はその状態でも社会が回ってはいる」ものであり、つまり大勢の致命的な不利益にはなっていないものであることから、社会運動で声を上げる人は多くの場合でマイノリティ側になります。

 そのため社会運動における当事者の声はどうしてもその他大勢と比べれば小さいものです。そしてだからこそ社会運動のリーダーやフォロワーはその小さな声の重要性を際立たせるため、「困っている当事者がこう言っているんだ」と当事者性に言及することとなります。

 

 ただ、この当事者性の強調が高じて「当事者以外は黙っていろ」と当事者以外の声を無視するようになるのは社会運動の阻害要因となります。

 社会運動の目的は社会を変えることであり、社会を構成する当事者以外の大勢に問題を伝えて言動を変えさせることです。

 つまり当事者ではない第三者に問題を語らせることが社会運動には必要です。

 社会運動が行うのは当事者による広告(advertisement)ではなく、第三者に訴えかけ、第三者に語らせ、第三者に動いてもらうための広報・PR(Public Relations)であり、広報・PRによって公衆と関係性を構築するためには当事者性の非存在に対して適度な黙認が不可欠です。

 

結言

 社会運動において「当事者以外は黙っていろ」といった類の言説を時々見かけるため、もったいないと思っています。社会運動は当事者以外に語らせることが重要です。

 もちろん当事者の意見が尊重され重んじられるべきではありますので、当事者性が適度な匙加減で取り扱われることを望みます。

 

 これを換言すると、「当事者ではないから語るのは控えておこうかな」と発信を遠慮する姿勢にも疑問を投じることになります。当事者以外が語れないようではどうしたって社会運動が社会全体へは広がっていきません。

 当事者ではないからこそ語る、そういった姿勢にもフォロワーとしての意味があるのではないかと、私は考えます。

 もちろん、当事者の声を打ち消すような第三者の大声は問題視すべきですが。