「頭の良い人は頭の悪い人に合わせなければならない」
「強者は弱者を助ける必要がある」
この手の類の言葉が、実のところあまり好みではありません。
道徳的には肯定していますが、感情的には否定しています。
そんな、社会的には少し不適切な考え方を提示してみます。
感情で押し通すのは違うのではないか
賢い人や優れた人、地位の高い人や資産を持っている人を強者、そうではない人を弱者として区分した場合、「弱者から強者への配慮」を声高に述べる言説はそうそう見かけないことでしょう。大抵の場合で人々の言葉に上がるのは「強者から弱者への配慮」です。
この「強者から弱者への配慮」について、「強者に弱者の気持ちが分かるはずがない」といった弱者視点での共感の感情による強制性を伴った要求を時々見かけます。
ただ、これは正直なところあまり好みではありません。
感情で訴えるのであれば、これは反転しても通用するものだからです。
強者に弱者の気持ちが分からないように、弱者に強者の気持ちが分かるものでもありません。
人は自身の人生以外を経験できない以上、それぞれの体験は非実感的に分断されたものです。強者が「俺がこの地位を獲得するためにどれだけ血の滲むような努力をしてきたかお前に分かるのか」と述べることだってできますし、それは弱者の言葉と等価値であるべきだと思います。たとえ弱者の感情に多くの共感が伴うものだとしても、感情の価値に差異を付けてしまうことは絶対的な差別に他なりません。
よって弱者視点の感情的な「強者から弱者への一方的な配慮」の要求は強者への奉仕を強制する根拠にはなり得ないと考えています。
道徳による「強者から弱者への配慮」
当然ながら「配慮の余地」を多く持っているのは常に強者側です。
よって能力的にも資本的にも、弱者から強者へ提供するよりは強者から弱者へ提供するほうが現実的に実現可能で合理的な施策です。
とはいえ強者に「余地」が常にあるわけでもなく、その「余地」自体も、それが努力によるものであろうと、相続によるものであろうと、天運によるものであろうと、いずれにしても強者の所有物です。
個人の資産を脅迫的に放出させることは人権の観点からは不適切になるかと思われます。その点からしても「強者から弱者への配慮」を義務的に強いて強者から資源を剥奪するのは望ましくありません。
そもそも、感情を持って強者に配慮を強制する必要はないと考えています。
別の論理、例えば道徳心に依ったほうが自然で必然的です。
富める者は貧しき人に施すことが道徳的に望ましく、貧しき者は素直に施しを受けることがやはり道徳的に望ましい。「俺たちは強者だから弱者に施してやる」「俺たちは弱者だから配慮されなければならない」といがみ合うのではなく、素直に与え、素直に受け取る。互いに道徳的な行いを取ることが社会の調和を保つことに対して合理的となる。そんな相互の道徳性を尊重し合った関係が理想的です。
強者にのみ道徳性を求めて弱者には道徳性を求めないのは、厳しい表現とはなりますが遠回しに弱者を侮って差別しているようにも思えてしまいますので、相互性が重要だと思います。
結言
つまるところ、「強者は弱者に配慮しなければならない」とする言説は、論理の皮を被っているものの実際は感情的な脅迫に近しいものだと考えています。
「弱者は強者の資源を毟り取る権利がある」と言わんばかりの態度では、強者と弱者の分断が深まる一方です。そのような「よこせ」「イヤだ」と争うよりは、双方が道徳的に行動して「ください」「どうぞ」となるほうが物事がスムーズに進むと思います。
奪い合うのではなく、互いに道徳的であることが社会において合理的である、そんな関係と原則を構築するほうが何はともあれ穏健ではないでしょうか。