忘れん坊の外部記憶域

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社会を変革するのは意思(will)か、技術(technology)か

 時々ですが、物語やインターネットでの言論において暴力による変革を肯定する言説を見かけます。例えばアメリカ南北戦争や公民権運動といった過去の事例を用いて、変革には暴力が有効であったとする言説です。

 それに対する直接的な反対意見、というわけではありませんが、別の視点を提示してみたいと思います。

 

意思(will)による行動

 社会に存在する問題を解決して社会を変革するために、人々は様々な方法を実施します。

 例えば、文章によって未来の危機について訴える、インターネットで現在の不平等に声を上げる、動画を用いて人々を啓蒙する、そういった行動によって人々の行動の変容を図ることにより社会の変革を目指すやり方があります。

 その真逆として、問題の元であろう団体や集団に攻撃を仕掛ける、世間の耳目を集めるためにテロ活動を行う、反対勢力を物理的に抹殺する、そういった物理的な手段によって社会の変革を目指すやり方もあります。

 どのような形で表せるにせよ、社会の変革を求める人の思いが行動によって顕現していることから、これらは言論と物理の差はあれども、言い換えれば意思(will)の力と言えるでしょう。

 

社会変革の背景にある技術(technology)の変化

 もちろん社会を変革するには人の意思(will)による行動が重要なトリガーであることは疑いようのない事実です。

 ただ、技術屋的な視点なのですが、その前提には技術(technology)が不可欠だと思っています。

 その理由について、いくつかの例を持って説明します。

 

 例えばアメリカ南北戦争。戦争という暴力によって奴隷解放が為し得たとされていますが、その前提として次のような基盤があったことは事実かと思います。

  • 北部は商工業が発展しており、南部は大規模農業(プランテーション)が主流だった
  • 商工業では単純労働者ではなく訓練を受けた技能労働者が必要になる
  • 商工業では生産された商品を買うために所得と資産を持った購買者層が必要になる

 つまり商工業が発展していた北部では奴隷労働制が意味を失うような技術革新が先行して発生していた、そのことには大きな意味があると考えます。

 もしも北部で商工業が発展しておらず南部と同様にプランテーションが主流であったならば、単純労働者を解放する運動や政策は現実的に行えなかったと思われますし、そもそも奴隷解放を主題の一つとした内戦すら起こらなかったのではないか、そう考えることもできるのではないでしょうか。

 この考え方は奴隷解放に尽力して戦っていた人々の意思(will)の意味や価値を低下させたいのではなく、社会を変革するためにはその下地である技術をまずは整えなければならないことも重要だ、という意味です。むしろ技術さえあれば意思を持った人々の背中を押すことにもつながる、そう考えられます。

 

 公民権運動も同様に、黒人の方々が受けていた不平等を正し公正な社会を実現するためには、当時利益を得ていた白人側に社会的な技術発展から生じた余裕の存在が不可欠だったと考えます。

 技術の発展が乏しく、もしくは不足している段階では過酷な立場の人々を思いやるための社会的余裕が存在しません。社会的余裕が無ければ社会の階層を適切に分解できないことは世界中の非差別階層の事例を見ても明白です。分かりやすく日本の事例を挙げても、厳しい現実ではありますが、明治政府による身分解放令は身分が低かった人々の生活基盤を崩壊させてしまい差別の深刻化を招くことになりました。

 その対比として、公民権運動では社会的な余裕があったからこそキング牧師のような偉大な黒人指導者の元に余裕を持つ多数の白人賛同者が集い、運動の成功へと導けたのだと考えます。

 少なくとも暴力的な行動が公民権運動に賛同する白人支持者を増やしたとは思えません。そもそも公民権運動の時代において非主流であった急進派の暴力活動は公民権の獲得ではなく白人社会からの黒人社会の独立分離が目的であり、それは成功裏には終わりませんでした。

 

 別の事例でも考えてみましょう。

 例えば、なぜ化石燃料の使用量が減らないかと言えばそれはとても単純な話で、化石燃料を代替する技術がまだ不十分だからであり、人の意思(will)だけではどうにもならないからでしょう。

 もしも化石燃料よりも安価で持続性が高いエネルギー源が発明されれば、それこそあっという間に社会変革が進んで化石燃料は使われなくなるはずです。

 畜産や肉食も同様です。それ以外の安価で環境に優しく美味しいものが開発されれば、やはり人々はそちらに流れていくことでしょう。

 

結言

 社会を変革するのは意思(will)か、それとも技術(technology)かと考えた時、人々の意思(will)に働きかけるため暴力的な活動を行うよりも、技術(technology)にリソースを注ぐことがまずは重要ではないかと愚考します。

 技術の下地があって初めて人々の意思に働きかけることができるのであり、意思の力だけで無理を推し進めることは現実的ではないどころか秩序や平穏の崩壊を招きかねません。

 

 意思の力を否定して技術よりも下に見ているわけではありません。何らかの指向性を持った意思が無ければ技術は発展しないのですから。

 これらは社会を変革するため螺旋的な相互作用を持って進んでいく両輪です。

 

 つまるところ、暴力的な活動をするよりも言論の力によって技術の方向性を整え、言論の力によって技術の発展を進めるほうが社会の変革を目指すのであれば有益です。

 畜産家の仕事を妨害し肉屋に石を投げるよりも代替肉を開発する企業の商品を買い支えるほうが良いですし、美術館や発電所にテロを行うよりは合成燃料や再生可能エネルギーを研究する企業へ投資するほうが社会の変革に資するでしょう。