忘れん坊の外部記憶域

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非武装論と自衛論のすれ違い:自衛論側の言い分

 「ヒャッハー戦争だー!戦争最高!」と威勢の良い極めて一部の不思議な方々や、「世界なんて全部滅びてしまえばいい・・・」と世を儚む虚無主義者の方々のことはさておき、大抵の人は戦争を嫌います。

 功利主義や博愛主義、その他さまざまな視点から見ても戦争は望ましくないものであり、平和の方が望ましいものです。

 

 ただ、平和の望み方には大きく分けて二つの異なるベクトルが存在します。

 一つは非武装論

 武装が無ければ戦争は起きないとして、戦争の根治を目指す発想です。

 一つは自衛論

 バランス・オブ・パワーの理論等に従い、武装や同盟によって戦力の均衡状態を保つことで戦争の抑止を目指す発想です。

 どちらも戦争の勃発を防ぎ平和を希求する考えではありますが、手法は真逆と言えます。

 

 非武装論の方々には申し訳ないですが、今回は自衛論の観点から言説を述べていきます。

 万人に適した言説というのは、難しいのです・・・

 

ミクロとマクロの違い

 誰だって武器を構えている人と親しくすることはできません。銃口を向けられていて対等な交渉をすることはできませんし、攻撃される恐れがあっては委縮してしまいます。

 それは誰にだって理解できる当たり前の話です。

 

 しかしミクロとマクロ、個人と国家を同一視しては問題が生じます。

 

 前述したように一方的な武装は対等な関係性を構築できなくします。これをとても苦い表現で言い換えると、相手よりも強い武装をすれば対等以上の交渉ができることを意味します。

 先進国に住む私たち個人がそんなろくでもない暴力的な論理に従って互いに武装の拡大競争をしないで済んでいるのは、国家権力が警察や軍隊、すなわち強大な暴力を独占しているためです。

 個人が暴力を行使する、もしくはチラつかせるだけでも国家は法に基づいてその個人を罰することが可能です。より大きな暴力によって抑圧されることにより武装するほうが損が大きい状態が上手く保たれているからこそ、私たちは武装して相手を脅す必要もなければ相手の武装に怯える必要もない生活を送ることができています。

 途上国では個人や小集団が武装を放棄できないのも同様の理由です。中央政府が治安維持のための暴力を独占できておらず法の支配と警察力が徹底できていないため、彼らは自衛のために否応なく武装せざるを得ない状況となっています。

 

 国際社会においてはこの論理が通用しません。

 それは単純に、国家を抑止するだけの暴力が誰にも独占されていないためです。小国の暴力であればまだしも、大国が暴力を振った場合に止められる暴力機構を私たちの国際社会は保有していません。

 このように強大な暴力の独占によって抑止されない状態をアナーキー(無政府)と言います。ミクロな個人と違い、マクロな国際社会はアナーキーであることは必ず留意されなければなりません。

 極めて残念ながら、国際社会においては財布の許す限り武装するほうが有利となります。もちろん国際関係はそこまで単純なだけでもなく、経済的な繋がりや外交関係、同盟関係など様々なファクターによって相互の関係性が定まるものではありますが、武装の大小はやはり大きなファクターの一つです。

 

 非武装論の理想形は全ての国家が同時に武装を破棄することでしょう。それは間違いなく平和の一形態であり、望ましい状態ではあります。

 しかしその実現には囚人のジレンマを解消するロジックが不可欠です。武装をしていたほうが有利である構造を残したまま武装解除をしようとすれば、破棄せずにこっそり武装を隠していた悪人が有利になってしまいます。

 そんな悪人の手助けをするようなことは避けたいというのが、自衛論である武装維持派の考えです。

 

戦争の動機と勃発原因の区別

 武装をすると相手の恐怖心を煽り攻撃を誘発する可能性がある、とした論理もあるかと思います。

 ただ、全ての戦争指導者に共通することですが、戦争指導者は「勝てる」と思って戦争を始めます。負けるために戦争を始める戦争指導者はいません。相手を倒すことができるはず、もしくは有利な条件で講和できるはず、そういった希望的観測も含めて、戦争指導者は戦略目的を達成できることを想定して戦争を始めます。

 つまり、恐怖心は動機の一因にはなりますが、勃発の原因にはなりません。どのような動機があろうとも「勝てる」と思えない戦争は起きず、どれだけ恐怖したとしても勝てない場合は攻撃を仕掛けません。むしろ武装をしないほうが相手国の戦争指導者に「勝てる」と思わせて戦争を引き起こす危険があります。

 他国を侵略するような悪人に「勝てる」と思わせてしまうような素振りを見せるのは、間接的ではありますが悪人の利得になりかねないので、避けたいものです。

 

武装の有無と時間軸

 非武装論と自衛論では想定している時間が異なることもすれ違いの原因かとも考えます。

 武装や基地がある場合、いざ戦争が始まった後に相手の国は自国の軍隊が攻撃されないよう当然そこを攻撃するでしょう。非武装論の方々はそれを問題視していると思われます。

 自衛論はその前段階、いざ戦争が始まる前にそもそも戦争のトリガーを起動させないよう武装をすべきだと考えます。

 

 厳しい話となりますが、戦争において敵の軍隊を攻撃することは手段であり目的ではありません。戦争は戦略意図を達成することが目的であり、場合によっては武装地域を避けて非武装地域を率先して侵略するほうが自軍の損耗少なく目的を達成できるのであれば、国家は迷いなくそうします。

 これは決して愉快な話ではありませんが、軍隊同士の戦闘は手段に過ぎないことは軍事を語る上で絶対に理解しなければいけない視点です。

 

 つまり、武装があるかどうかはいざ戦争が始まった後にはそこまで関係がありません。軍事作戦上必要であれば、武装があろうがなかろうがそこに侵攻を行います。変わるのは侵略時に用いる戦力の多寡のみであり、侵略者からすれば「武装が無いなら送り込む戦力が少なくてラッキー」なだけです。

 それはどうにも、戦争を仕掛けるような悪人を利するようなことだと思ってしまいます。

 

結言

 他にも開戦後の保険やリスクヘッジとして軍隊を必要とする論もありますが、総じて、自衛論の大枠としては「この世には悪人が存在しており、悪人を利するようなことは望ましくない」思考がベースにあります。

 そしてそういった観点を持っているため、自衛論からすると非武装論はまるで悪人の味方のように思えてしまうことが嫌われがちな理由だと考えます。

 

 もちろん非武装論にそのようなつもりが一切無いことは自衛論側も分かっていますが、本論で述べたいのは非武装論が自衛論を説得するには武装することのリスクを説いても意味がないということです。

 自衛論は武装自体のリスクを低く見積もっているのではなく、悪人を利するような世界になることを恐れているのですから、自衛論者を説得するためには「悪人が世の中に跋扈できないような方策」の提案が必要です。それさえあれば自衛論者も武装を破棄することに同意することでしょう。

 

 

余談1

 同時に言っておきたいことなのですが、自衛論側も非武装論を「非現実的なお花畑思考」だとかなんとか言って揶揄するようなことは止めたほうがいいと思っています。

 どちらも平和を志向しているのですから、口喧嘩をしても意味が無いです。

 自衛論も非武装論も、対峙すべきは「他国の主権を侵略することを是認する覇権主義者」だと思う次第です。

 

余談2

 ロジックではなく信念やアイデンティティとして非武装を唱える人もいらっしゃるかとは思います。

 私はミクロな個人の範囲であれば非武装に同意します。

 ただ、マクロの国家ではそうは考えません。いざ戦争が起きた際に非武装ではリスクヘッジをできないためです。

 せめて前線の民間人を後方へ逃がし同盟国の援助が来るまで遅滞戦闘ができる程度の戦力は必要だと考えます。非武装では前線の国民の命を守る術を一切取れなくなってしまいます。

 国民の生命を、他国へ侵略するような野蛮な国家の人権意識に頼るのは極めてギャンブル的であり、国家として無責任の誹りを免れないかと思うわけです。

 

 個人的な信念やアイデンティティに基づいて、自らの人生を捧げ殉じるのは個人の自由です。それは否定されるべきものではありません。

 しかしその信念やアイデンティティのために、他者の人生や生活をチップとして賭け事に用いる行為を私は好みません。

 それはベクトルが真逆であるものの、戦中の「お国のために死んでくれ」と強要する行為に近似すると考えるためです。少し厳しい表現ではありますが。