忘れん坊の外部記憶域

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議論(ディスカッション)と討論(ディベート)は目的もプロセスも異なる

 以前にも記事にしたことがありますが、議論(ディスカッション)討論(ディベート)は似ているようで異なる概念です。

 議論と討論は異なる概念です。様々な意見を持った人々が集まり共通の結論を探し求めるのが議論で、対立した意見をぶつけ合いどちらがより良い主張かを競うものが討論です。どちらも批判的思考を用いるものですが、議論は自らの意見を含む全ての意見を批判的に見るのに対して討論では対立意見を批判的に検証します。

 

 「議論」は意味合いの幅が広く、討論のような闘技的行動が含まれることもあります。

 日本語は曖昧さの多いところが美点でもあり欠点でもありますが、議論とは何かの捉え方が人によって異なってしまうことは少しばかり問題です。

 私が明確に議論(ディスカッション)と討論(ディベート)を分けているのは、これらは目的とプロセスがまったく異なるものだからです。

 

議論と討論の目的とプロセスの違い

 議論と討論はどちらも批判的思考によって論理を検証し合う行為ですが、その目的とプロセスはまったく異なります。

 

 討論の目的は【説得:相手を打ち負かすこと】です。

 互いに持ち寄った論理をぶつけ合い、白黒はっきり付けることを目指します。よってそのプロセスでは攻撃として相手の論理の瑕疵を指摘し、防御としてこちらの論理の頑強さを固めることを行います。

 

 議論の目的は【相互理解:より良い結論を出すこと】です。

 それぞれ論理を持ち寄りはしますが、それをぶつけ合うのではなく差し出し合い交換を行うことでより望ましい論理を構築することを目指します。よってそのプロセスでは攻撃や防御の区別なく、適切であれば他者の論理を採用して持論を取り下げることもままあります。後付けで論理に肉付けを行ったり、それぞれの論を混合することも自由です。

 

 料理で例えると分かりやすいかもしれません。

 討論とは、それぞれが完成品を持ち寄って、見た目や味を競い合うものです。目的は自身の完成品が一番を取ることであり、それは同時に相手の完成品を一番から引き摺り下ろすことでもあります。

 議論とは、それぞれが素材を持ち寄って、どんな料理を作るか考えるものです。目的は皆が満足する料理を作ることであり、そのためにどうするかを話し合います。

 

民主的なコミュニティに必要なのはどちらか

 以上のような差異を踏まえると、民主的なコミュニティが重視すべきは議論(ディスカッション)であることが分かります。

 もちろん討論が不要というわけではなく、議論が行き詰りどうにも進捗しない場合や時間的制約に基づいて早急な意思決定が必要な場合などでは討論や闘技的コミュニケーションによってどの論理を採用すべきかを急ぎ決めなければならない時もあります。

 ただ、討論はコミュニティの発展には寄与しません。少なくとも討論はコミュニティの統合を高めて最適解を模索する方向ではなく、コミュニティを分断する方向に働きます。

 

 とても雑な例として、あるコミュニティにおける意思決定を考えてみましょう。

 全体のうち7割が活躍する案と、3割が活躍する案が出た場合、討論や多数決を行えばまず間違いなく7割が活躍する案が採用されることでしょう。

 それは7割の満足をもたらすかもしれませんが、3割は不満を溜め込むことになりますし、コミュニティとしても最大出力が行えているわけではなく非効率的となります。

 議論はそういった対立ではなく、コミュニティに所属する人々にとってより良い結論を導き出すために案をこねくり回す行為です。最終的に全員が活躍することは難しくとも、討論による勝ち負けではなく議論の結果であればコミュニティとしての統合が高まり不満を溜め込みにくいものですし、議論自体がコミュニティへの参画意識を高めるものでもあり、何よりも初期の案よりも皆が満足できる最適解へ近づくことが可能です。

 

結言

 議論と討論は異なるものであり、民主的なコミュニティにおいては議論が必要です。

 そして議論を成り立たせるためには、まず何よりも「より良い結論を導き出す」ことを目的として共有すること、そしてプロセスの理解が不可欠です。

 

 

余談

 さらに深掘りとして、議論にもいくつかの課題があります。

 規模の大きいコミュニティでは共同体意識が希薄になりがちであり、議論の目的である「皆にとって良い結論」のための皆の範囲が人によって異なることから議論が成り立ちにくくなること、異なるコミュニティ間で議論を成立させるのは難易度が高くなること、などです。

 議論は万能で常に民主的になり得るわけではないことも留意が必要です。