忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

テロリズムは抑止すべきだし、社会問題は解決すべきである

 二律背反ではないはず。

 

テロリズムの定義

 まず、念のためにテロリズムの定義について整理します。

 テロリズムは時代によっても意味の変わるとてもレンジの広い言葉なので、今回は大雑把に英語Wikipediaから定義を持ってきます。

Terrorism, in its broadest sense, is the use of intentional violence and fear to achieve political or ideological aims.

引用元:Terrorism - Wikipedia

最も広義のテロリズムとは、政治的またはイデオロギー的な目的を達成するために、意図的に暴力と恐怖を用いることである。

 よくテロリズムに関する議論では「政治的」という言葉が狭義で用いられることもありますが、そもそも「政治」そのものが国政や地方政治以外にも利害関係者の調整といった幅広い意味を持つ言葉であり、またテロリズムの広義にはイデオロギー的な動機も含まれます。

 よって利害や損得、思想や信念による動機も全て広義の意味でのテロリズムです。

 

テロリズムの否定と党派性

 一部では暴力的な変革を許容する方もいらっしゃいますが、基本的に「テロリズムの容認」に同意する人はまずほとんど居らず、暴力の否定は社会的合意が取れるかと思います。

 

 ただし、テロリストの動機が社会的な問題の場合、大枠として次の二つに意見が割れることがあります。

 「テロリストにお墨付きや成功体験を与えるべきではない」

 「テロは悪いことだが、詳らかになった社会問題は解決しなければならない」

 意見が割れるのは党派性の影響です。テロリストの動機が自らの主義主張に近しいものであれば後者の気持ちが生じ、そうでなければ前者の気持ちが強くなります。

 このような党派性の影響を避けることは難しいですが、党派性が先鋭化して二極化思考に陥ると「だから社会問題を温存する」あるいは「だからテロリズムを容認する」まで行きつきかねません。

 これらは党派性を問わずどちらも望ましくない言説であり、だからこそ党派性の影響は可能な限り避ける必要があります。

 

グラデーションでの分類

 この手の論争で悩ましいのは「テロリズムの抑止」と「社会問題の解決」が二律背反に近い関係にあることです。テロリズムを抑止するために社会問題の解決へ手を出さないことは望ましくありませんし、社会問題を解決する契機としてテロリズムを暗に肯定することも不適切です。

 

 ただ、「テロリズムの抑止」も「社会問題の解決」も、それ単体であれば互いに合意できるはずです。テロリズムは抑止すべきですし、社会問題は解決すべきです。

 そう考えると、「どちらをすべきか」で論争をするよりは「どうすれば両取りできるか」を考えたほうが建設的で健全な議論になるのではないでしょうか?

 

 つまるところ、言論のグラデーションは次のような層になるかと思います。

  1. 【テロリズムに成功体験を与えないため社会問題を温存すべき】
  2. 【テロリズムに成功体験を与えないよう抑止すべき】
  3. 【テロリズムは悪いことだが、社会問題は解決すべき】
  4. 【社会問題解決の契機であり、テロリズムを容認すべき】

 テロリズムは抑止すべきですし、社会問題は解決すべきであるならば、2.と3.は本来共存できます

 社会問題の解決を阻害しないでも社会的無視や動機の不拡散などテロリズムのコストを高める方法はありますし、テロリズムの有無を問わない社会問題の解決だって行えます。

 さらに言えば、2.を否定すると自身は4.になりかねませんし、3.を否定すると自身は1.になりかねません。2.と3.は相互に補完し合える関係であり、否定し合う必要はないはずです。

 重要なのは1.と4.のような社会問題の温存やテロリズムの容認を表明する言論、すなわち「テロリストに同調しないために社会問題を解決すべきではない」や「テロリストの気持ちも分かる」と言った言論を言論空間の脇に寄せて、2.と3.のみを残すことです。そうせずに2.と3.で争っていては抑止も解決も上手く進まなくなってしまいます。

 

結言

 議論をしていると熱くなってどちらかに寄りがちなものですが、0-100の二極化思考に陥るのはもったいないと思います。

 

 「お前は抑止を重視するんだな、じゃあ任せた。こっちは社会問題の解決に注力しよう」

 

 争うのではなく、足を引っ張り合うのでもなく、過激な言論だけは脇に寄せて、それぞれが重視するところに分業して注力することでどちらも両取りして解決ができる、そんな建設的で健全な議論のほうが好みです。