忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

意見対立時は二項対立ではなくアナログ思考で

 土曜日の夜。

 お腹が空いたためご飯を食べに行こうとお家を出たら、駐車場に車が無い。

 盗まれたか?

 ああ、いや、そうではなかった。金曜日に会社の飲み会があったから、車を会社の駐車場に放置したことを忘れていた。

 調子に乗って飲み過ぎたせいで土曜日は家でダラダラと過ごしていたため、車が無いことに夜まで気付かなかっただけだ。

 もうだいぶ暗くなっており歩いてご飯を食べに行くほどの元気が無かったので、すごすごとUターンして台所の棚の奥に隠すように置かれていたお蕎麦を茹でて食べた。

 お蕎麦を食べるとお腹を壊すことを忘れていたので、日曜日は一日中腹痛と戦っていた。

 

 そろそろ、この馬鹿すぎる脳を検査したほうがいいと思った。

 

 

 ちなみにですが、翌日がお休みの飲み会の日には会社に車を置いておいて、休日会社まで歩いて取りに行くことを私は飲み会健康法と名付けています。否応なしに1時間以上の散歩となり、適度な運動になるのです。

 今回は腹痛の波が収まっている合間を縫ってなんとか散歩を完遂し車の回収に成功しました。全体的に、なんとも馬鹿ですね。

 

ぐったりした休日に寝転がって考えていること

 日常的にお酒を呑まなくなったからか、飲酒後の翌日はなかなか気力が湧かず、飲み会の度に「ああ、酒に弱くなったのぉ」と思います。まあ今回は3次会まで行ったせいでもありますが。呑み過ぎです。

 そんな飲酒後のグダグダの日は似非ベジタリアンなり似非ヴィーガンなりの気持ちになって、体に優しいものを食べたくなります。単純に重いものが食べられないだけでもあります。

 

 さて、ヴィーガン(完全菜食主義者)です。日曜日は腹痛で寝転びながらヴィーガンについて考えていました。

 インターネットの一部では何故か蛇蝎の如く嫌われているヴィーガンですが、個人的にはヴィーガンを嫌う理由が無いので嫌っていません。

 ヴィーガンに関する論争は議論が対立した際に立ち位置を再確認するための事例としてとても分かりやすいため、今回はヴィーガンを例として考察をしていきます。

 

 ヴィーガンには様々な宗派、主張があります。健康の改善であったり、文化的な事情であったり、環境やアニマルライツの問題解決など実に様々な理由があると言えるでしょう。

 これらはどのような理由であろうと、少なくとも「良くあろうとするベクトル」を持っていると感じますので私は否定する理屈を持ち合わせていません。積極的にヴィーガニズムを実践してはいませんが、環境やアニマルライツについては行動を考えるべきだと同意していますし、厳密に実践している人は立派だと思います。

 また、ヴィーガニズム自体は哲学的な主義主張であり、誰しも内心の自由がある以上、それは否定されるべきものではないとも思います。

 

 なぜヴィーガンがインターネットの一部で嫌われているか。

 雑な表現ではありますが、「その主義主張を押し付けてくる人がいるから」と集約することができるでしょう。それは穏健なヴィーガンの人が、自身がヴィーガンであることをオープンにする際によく用いられる「私は人に押し付けない」といった類の枕詞からも推察できます。

 

 ここでよくよく考えると、ヴィーガンに関する議論は賛成と反対の二項対立ではない構造があります。

 もちろん賛成と反対の点はあります。しかし全ての人がそのデジタル的な2点のどちらかにいるわけではなく、もう一つの指標、ラディカル(過激)かモデレート(穏健)かによってアナログな数値を持ちます。人は誰しも0-100ではなく、その中間の値を取り得るわけです。

 ヴィーガンを認めないアンチ菜食主義の0とヴィーガン以外認めないアンチ肉食主義の100の間には、ヴィーガンに肉食を押し付けない30くらいの肉食主義者肉食主義者に菜食を押し付けない70くらいのヴィーガンの両方が存在しており、そしてその中間層は”互いに共存が可能”です。

 

 つまり、嫌われているのはヴィーガンではなく、主義主張を他者に押し付けるラディカル(過激)な人です。ヴィーガンだから嫌いだ、という主張は本質的に誤解によるものです。

 これは逆の視点に立てば分かりやすいでしょう。

 ヴィーガンからすれば「ヴィーガニズムを否定して肉食を強要してくる人」は当然ながら嫌われています。それは同様に、肉食主義だから嫌われているのではなく、主義主張を他者に押し付けるラディカル(過激)な人が嫌われているだけです。

 

結言

 よく議論や論争の場ではAかBかの二項対立として事象を捉えてしまいがちなものですが、実際の人々はもっとアナログ的な分布と分散を持つものです。

 デジタル的に物事を見ていては決して双方が納得する結論を見つけることが出来ませんので、他者と意見が対立した際にはアナログ的な思考が必要だと考えます。

 

 グタグダな日は、穏健な解決策を模索したがる性癖がいつも以上に顔をもたげることが分かる、そんな一日でした。