若手「気候変動問題は何を差し置いてもどんなコストを払っても最優先で解決しなければいけないんです」
私「それはSDGs的ではないと思うけど。食糧や飲料水の問題とかもあるわけだし、17項目をバランスよくやるべきじゃないかな」
若手「気候変動で死んでいく未来の世代がどうなってもいいんですか」
私「それは未知数のリスクに莫大なコストを支払ってもいい理屈にはならないと思うけど。途上国で今も死んでいる現在の世代を無視するのは残酷なことじゃない?」
若手「最悪の場合は人類が絶滅するんですから、いくらお金を掛けても解決しなければならないんです」
私「その分のお金で救える現在の世代の命を無視するのは、やっぱり過激だと思うけどなぁ」
気候変動問題に関して、私は漸進的な行動を求め、彼は急進的な行動を求めています。意見が合わないので議論していてなかなか面白いです。
でも酒の席でヘビィな議論を振ってくるのは勘弁してください。もっと気楽な趣味の話とかをしようよ。
予防原則におけるリスク評価
彼とは意見が合いませんが、彼の言い分も分かります。気候変動のリスク評価はどうしても不確実性が伴うものではありますが、しかし最悪の場合は文明に致命的な影響を与えかねないことが考えられますので、ハザード(被害)を無限大に設定して予防原則的に対処をすべきだという意見は感情的に理解できます。
ただ、リスクはハザードと頻度の乗算であり、リスク評価をする際にハザードを無限大に設定したり頻度を無視するのは禁じ手です。
嫌味な例として、「巨大隕石」を想定してみましょう。地球にぶつかれば人類どころか生態系が崩壊するような巨大隕石です。この事象によるハザードは極大だと言えます。
しかしだからと言って「世界中の全ての富を使ってでも地球に接近する隕石を全て破壊するレーザーシステムを宇宙に設置する」と主張する人はほとんどいないはずです。それは巨大隕石が衝突する可能性が私たちの想定し得る範囲からすれば極めて低く、またハザードは極大ではありますが無限大ではないと判断されており、ハザードと頻度の乗算であるリスクは低いと判定されるためです。許容されるのは小惑星地球衝突最終警報システム(ATLAS)程度のコストまででしょう。
同様に、「急に重力が無くなって世界が滅亡するかもしれない」として、「だから全ての建築物を無重力環境でも大丈夫な構造に置き換えよう」とはなりません。そんな建築物を作るコストは莫大ですし、発生確率は0では無いとはいえ極小だからです。
このように、掛けるコストとリスクは常に天秤へ載せられなければならないものであり、リスク評価でハザードを無限大に設定したり頻度を無視しては適切なコスト評価ができず、議論が成り立たなくなってしまいます。
ティッピングポイントに関する科学的な見解
彼との議論中にティッピングポイント(転換点)の話が出たので、具体的にIPCCがティッピングポイントに関連して何を述べているのかを整理してみましょう。
ティッピングポイントとは大規模な変化が不可逆的に生じる可能性のある閾値を意味します。ティッピングポイントに至れば文明へ甚大な被害をもたらす可能性がありますが、リスク評価とコスト判断をするには頻度を検証する必要があります。
ちょうど、というほどでもありませんが、令和5年3月に第1作業部会報告書の技術要約の暫定訳が気象庁から発表されていますのでそちらから引用します。ようやく技術要約をいちいち英語で読む必要が無くなったので引用が楽になりました。
◆気象庁 Japan Meteorological Agency
事前知識として、IPCCが用いる用語に確信度があります。
たとえば(確信度が高い)とは学者の見解は一致しているが確実な証拠がない場合か、証拠はあるが学者の見解は一致していない場合です。(確信度が低い)とは、学者の見解が一致しておらず証拠も確実ではない場合です。
特定の GWL と転換点(ティッピングポイント)及び不可逆的動態との間の関連性を確立することは、モデルの不確実性及び観測データの欠如のために困難は多いが、それらが発生する可能性を排除できず、それらの発生確率は一般的に温暖化の水準とともに増大する。
p.27
※GWL:地球温暖化の水準
北極海の夏の海氷は、世界平均気温とともにほぼ線形に変化しており、このことはティッピングポイントは存在せず、観測/予測された海氷減少は潜在的に可逆的であることを示唆している(確信度が高い)。
p.44
世界規模の気候指標については急激な変化の証拠は限られているが、海洋深層の昇温、酸性化、及び海面水位上昇は、世界平均気温が最初に安定化した後も数千年にわたり継続して変化することが不可避であり、人間の時間スケールでは不可逆的である(確信度が非常に高い)。地域規模では、急激な応答、ティッピングポイント、そしてには変化の方向の反転さえも排除できない(確信度が高い)。地域規模の急激な変化及びティッピングポイントの一部は、過去に例のない気象、極端な気温、並びに干ばつ及び森林火災の頻度の増加などの深刻な局所的な影響を及ぼしうるだろう。
このようなティッピングポイントを示すモデルは、閾値を超えると急激に変化するのが特徴であり、地表気温又は大気中の二酸化炭素濃度が閾値以下に戻ったとしても、ティッピング要素が閾値超過前の状態に戻ることは保証されない。気候システムのティッピング要素を観測するために、モニタリング及び早期警戒システムが整備されつつある。
p.74
大西洋子午面循環(AMOC)など、ティッピングポイントが存在すると疑われていたいくつかのプロセスは、気温が安定した後、しばしば一定時間の遅れをもって回復することが判明している(確信度が低い)。ただし、一部の雪氷圏の変化、海洋温暖化、海面水位上昇、及び海洋酸性化については、実質的な不可逆性が更に実証されている。
p.74
生物地球化学的循環における急激な変化とティッピングポイントの可能性は 21 世紀の大気中の GHG 濃度に不確実性を上乗せするが、将来の人為的な排出量の不確実性が依然として支配的である(確信度が高い)。いくつかの高排出シナリオでは、水循環の急激な変化の可能性があるが、そのような変化の大きさと時期に関する全体的な整合性はない。植生、ダスト、及び雪を含む陸域地表付近の正のフィードバックは、乾燥度合いの急激な変化に寄与しうるが、そのような変化が 21 世紀中に起こるという確信度が低い。アマゾンの森林減少の継続と気候の温暖化が重なった場合、21 世紀中に、この生態系がティッピングポイントを超えて乾燥状態に陥る確率が高くなる(確信度が低い)。
p74-75
結言
科学者の作成した技術要約におけるティッピングポイントへの記述では、気候が急激に変化している証拠は限られているとしており、またティッピングポイントを超えることよりも人為的な温室効果ガス排出のほうが支配的とされています。しかし可能性は排除できず、深刻な局所的影響を及ぼしうるものであり、ティッピング要素の観測のためにモニタリング及び早期警戒システムが必要だとも述べています。
これは「気候変動によって気候の激甚化が進んでいる」「ティッピングポイントに至れば人類が滅亡する」「ティッピングポイントを避けるためにはあらゆる行動が必要だ」といった、世間一般で用いられている断定的な表現とは異なっていることが分かります。
つまるところ 科学者の意見を聞かず「気候変動のリスクは無限大だからどんなコストでも支払うべき」とするのはあまり科学的ではないかもしれません。
科学に従うのであれば、ハザードは無限大でないことを認めて、未だ不透明な発生頻度を解析できるようにモニタリングや早期警戒システムを整えるコストを払い、科学的な調査を進めて漸進的な対策を取ることが妥当ではないかと私は思います。
それこそ「巨大隕石」と同じように、です。
余談1
この手の話をすると「気候変動対策を否定するのか」と批判されることがあるかもしれませんが、私は対策を否定していません。科学に基づき、適切な対策をすべきだと主張したいだけです。
余談2
『ドント・ルック・アップ』と比べると、極端な危機を叫ぶ側は真逆で、しかし誰も科学者の話を聞いていない点では同じになっているような気がします。なかなかに趣深いものです。
少なくとも現在の科学はティッピングポイントを超えることよりも人為的な温室効果ガス排出のほうが支配的だと述べており、それは気候変動が"瞬間的"で"不可避"な「巨大な隕石」ではないことを示唆しています。
余談3
IPCCの報告を読むうえで『確信度』を理解することはとても重要です。
例えば第3作業部会の報告書では次のようなことが書かれています。
温暖化を2℃に抑えることの世界規模の経済効果は、評価された文献のほとんどにおいて緩和コストを上回ると報告されている(確信度が中程度)。
確信度を考慮しない場合、私たちは「緩和コストよりも温暖化を2℃以下に抑えることにコストを払うべき」とほぼ断定できます。
しかし確信度を考慮すると、これは「科学者の見解は一致しているけどその証拠はない」ことを意味しますので、「緩和コストよりも温暖化を2℃以下に抑えたほうが多分良いと思うけど、根拠は無いから間違ってたらごめんね」くらいの少しニュアンスだと解釈できます。少し官僚的な表現ですね。
見解は一致しているとはいえ根拠の無い意見にオールインするのは、逆にリスクを高めるような気がしてしまいます。